年間第20主日 8月16日 マタイ 15・21-28 メガ盛りの信仰
苦しむ子ども、そのいのちのために「あわれんでください(いつくしみを)」と願う、一生懸命なお母さんに、イエス様は「すごいね! あなたの信仰はとても大きい。あなたが望むように起これ」と神様のあわれみ(いつくしみ)をお示しになりました。
この「大きい」という元の言葉は「メガ」で、私たちがお店で注文の際に「メガ盛りで」と頼む、あの「メガ(大きい)」です。
今風にいえば、「あなたの信仰はメガ盛りだ」です。信仰がメガ盛りとはどういうことでしょう?
それは苦しむいのちのために一生懸命なこと、そのいのちを自分のいのちとすることです。イエス様はこのお母さんの姿に「わたしの母のような方だ」とマリア様を重ねて見られたことでしょう。
イエス様は苦しむいのちをご自分の苦しみ、ご自分のいのちとしてくださいます。ご自分の母がいつもそうされていたように。
それに比べて今日の弟子たちの信仰は? レギュラーサイズでも、スモールサイズでもなく、失敗です。弟子たちはイエス様に「叫びながらついてくる、この人を去らせてください」と願いました。この人は困っていても異邦人、わたしたちの仲間ではないので関わる必要がないと考えていました。
イエス様も「イスラエルの家の救うことに失敗した羊への他には私は遣わされていない」とお答えになりました。しかし、イエス様はそのお母さんに「あなたよりも先に救うべき人々がいる」とお答えになったわけでも、その信仰を試されたわけでもありません。「救うことに失敗したイスラエルの羊」とは、この日の弟子たちのことだったのではないでしょうか? 困っている人に手を差し伸べないどころか、去らせようとした。人の苦しみに無関心、とても救われているとは言えません。あわれみ(いつくしみ)は自分たちだけが救われることではなく、人の苦しみに気付くこと。その苦しむいのちのために一緒に叫ぶことです。イエス様はまず先に、この救うことに失敗したイスラエルの羊である弟子たちに苦しむいのちを自分のいのちとすることができる、やさしいこころをとお考えになられたことでしょう。
わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。(イザヤ56・7)
祈りの家とはイエス様、今日のお母さんと元気になった子ども、そして弟子たち、わたしたちとマリア様。分け隔てのない全ての人々のことです。みんなで一緒に祈り続けます「主よ、いつくしみをわたしたちに(主よ、あわれみたまえ)」と。
全てのいのちにあわれみ(いつくしみ)がメガ盛りとなるように・・・。
(寺浜亮司神父/福岡教区 カット/高崎紀子)

