キリストの聖体 6月7日 ヨハネ 6・51ー58 荒れ野を歩む糧

 「わたしは、天から降(くだ)って来た生きたパンである」。この言葉を含むヨハネ福音書第6章には出エジプトの記憶があるとされている。モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民は荒れ野で飢え渇き自力では生きられないことを悟る。その時神は天からマンナを降らせる。荒れ野のマンナは腹を満たすだけの食べ物ではなかった。毎朝与えられるその糧を通してイスラエルは、命を支えるのは自分の蓄えではなく今日を養ってくださる神への信頼であると知った。
 第6章でヨハネはこうした旧約の出来事を背景にしながら聖体について語る。神が与えるまことのパンとはもはや荒れ野に降ったマンナではない。天から降って来た神の独り子、イエス・キリストご自身である。「わたしが与えるパンは、世を生かすためのわたしの肉のことである」とイエスが宣言する通りである。ところが、人々はこの言葉につまずく。「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」。この戸惑いは、ある意味では自然とも受け止められる。ヨハネもまた、そうした戸惑いを簡単に消し去ろうとはしない。むしろ、読者にもう一つの問いを向ける。つまり「この言葉を語っているのは誰なのか」という問いである。同じ6章でヨハネは湖上を歩くイエスの言葉を響かせる。ギリシャ語でエゴー・エイミー(=わたしだ)と記されている箇所である。この「わたしだ」は、神がモーセに示された自己啓示、すなわち「わたしはある。わたしはあるという者だ」(出3・14)にさかのぼる表現であろう。つまり、ご自分の肉と血を与えられる方は単なる預言者ではなく、荒れ野で民を養い葦(あし)の海を分けて民を通された神の命を内に持つ方なのである。こうしてヨハネは、出エジプトの記憶、マンナのしるし、そして神の自己啓示を重ね合わせながら、聖体がどれほど尊いたまものであるかを明らかにしていく。
 イエスはご自分の血と肉を「まことの飲み物」「まことの食べ物」として人類に与える。聖体を頂くたびにわれわれは十字架上でご自分の命を与えられたキリストを頂くのである。そして、キリストを頂く者はキリストの命によって生かされ、キリストのように自分を与える者へと変えられていく。しかし、この恵みを知ってなお、信仰の歩みは決して平たんではない。われわれは今日も明日もまたそれぞれの荒れ野を歩くのである。孤独や不安を抱えながら、時には人間関係の痛みを抱えながら。荒れ野とはそのような現実のただ中にあってそれでも神の命に支えられて歩む場所なのである。主は言われる。「わたしを食べる者は、わたしによって生きる」 
 聖体祭儀にあずかるとはこの命のパンを受けるために主の下に集められることである。飢えを隠さず、弱さを恥じず、主の御前(みまえ)に出ることなのである。この命に養われた者は家庭で職場で学校で小さなパンとなるよう招かれている。人を裁くのではなく支え、閉ざすのではなくつながり直し、自分にできる小さな愛を身近な人に差し出して生きるのである。
 聖体は、荒れ野を歩む教会の糧である。われわれはこのパンによって、ただ今日を耐えるのではない。永遠の命へ向かって歩むのである。 
(熊川幸徳〈くまがわ・ゆきのり〉神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子)

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