今週朗読される福音は「マリアの賛歌」との対比で「イエスのマニフィカト」と呼ばれることもある。マニフィカトとは元々ラテン語で賛美するという意味だが、典礼的文脈ではこの一語でルカ福音書に由来する「マリアの賛歌」を指すことが多い。お告げを受けたマリアはエリサベトを訪問し、その喜びの中で「わたしの魂は主をあがめ(=マニフィカト)…」と神への賛美を口にする。喜びの後に自然と賛美の言葉が続く流れになっている。
ところが、「イエスのマニフィカト」の直前に喜ばしい出来事はない。マタイ福音書11章でイエスは多くの奇跡を目撃しながら、なお悔い改めなかった町々を厳しく叱責する。その直後に「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と祈る。このつながりは一見唐突に見える。われわれは通常、賛美とは喜びや祝福の中から生まれるものだと考えるが、イエスの場合には拒絶と不信仰を前にして賛美が出現する。これは賛美が単なる感情の高揚ではなく、根本においては神との深い結び付きを前提しているからと思われる。
この点は十字架上の言葉とも響き合う。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という叫びは恐らく詩編22に由来する祈りと考えられているが、この詩編は壮絶な苦しみから始まり、最後には神への信頼と賛美へ向かう構造になっている。私はここにイエスの祈りの特徴があると考えてみたい。すなわち、イエスの祈りには悲嘆から始まっても、そこを通って父への信頼へ向かおうとする動きがあると。
マタイ福音書11章の祈りも同様である。イエスは不信仰な町々を憂い叱責するが、そこにとどまらず父の御心を見つめ賛美へ向かう。人々が神に心を閉ざしている現実を見つめながらも、それを摂理の中で受け止め直すのである。また今日の箇所では、神は「知恵ある者や賢い者」ではなく「幼子のような者」に御心を示されたという逆説が語られている。悔い改めなかった町々は神の言葉を聞きながら心を閉ざす。一方、「幼子のような者」は自らの力に頼らず神に心を開く。この対比の中で、一連のイエスの祈りは全てを父に委ねる信頼の祈りとして響いている。
さらにイエスは続ける。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」。ここでイエスの賛美は新たな段階を迎える。父への信頼に立つイエスは嘆きにとどまらず、重荷を負う人々をご自分のもとへ引き寄せる。つまり、イエスの祈りは苦悩を出発点としながらも父へと開かれ、傷つき疲れた人々を受け入れる具体的な愛へと至るのである。
しかし、ここで注意したいことが一つある。これをキリスト者の祈りの模範と直ちに結論付けてしまうならば、それは少し性急であろう。大きな悲しみの中で人はすぐに賛美へと向かえるものではない。厳しい現実に直面した時には、賛美どころか祈りの言葉さえ見つからないこともある。イエスの祈りは苦しみをすぐに乗り越えよと迫るものではない。嘆きのただ中にあっても父に向かう道はなお閉ざされていないことを静かに語っているのである。そして、その道を歩めないほど疲れた者には「わたしのもとに来なさい」と呼びかけているのである。
(熊川幸徳〈くまがわ・ゆきのり〉神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子)

