年間第11主日 6月14日 マタイ 9・36~10・8 確信できる道

 カトリック教会には、最初からイエス・キリストが歩まれた道に従って生きようとする人々がいました。彼らは全身全霊でイエス様に従うために自分の故郷を離れて砂漠に向かいました。そして、徹底した断食や祈りでイエス様と完全に一致しようとしました。これがいわば修道生活の起源です。
 もちろん、西洋では修道生活の形によってこれを意味する用語がいろいろありますが、日本では一般的にこれを指して「修道生活」といいます。本当の意味は「この世にあって聖別された生活」ということで、「奉献生活」と翻訳されます。つまり、貞潔、清貧、従順の福音的勧告の誓願を立て、神に自分自身を完全に奉献して、教会と世界の中で主から授かった使命を全うし、完徳に至ってイエス・キリストと完全に一致する生活を意味します。
 このような生活をわたしたちは「修道生活」といいますが、「修道」とは、言葉の通り、正しい道を修めることが教えであるという中国の古典の表現に基づきます。すなわち、「修道生活」は正しい道を修める生活です。東洋哲学で言われる「道」とは、万物の原理であり、理想的な人間像を成し遂げるために従うべき生の根本と見なすことができます。そういう意味で、その理屈をわたしたちは「道理」といいます。西洋の「奉献生活」が東洋では「修道生活」として伝わった理由は、イエス・キリストに従うことが、まさに理想的な人間像を成し遂げるためにわたしたちが歩むべき「みち」で、それが「道」だから、これを自分の人生で実現するのが「修道」、つまり「道を修める」ことだと思ったからでしょう。
 今日、イエス様は12人の弟子たちにご自分の権能をお授けになり、他のどこの道にも行かず、イスラエルの家の失われた羊のところへ行くように言われます。失われた羊は何を意味するのでしょうか。彼らは正しい道の上にいないのです。では、彼らはどこにいるのでしょうか。元々、野生の羊は慣れた道にしか行かないので、道に迷うことはほとんどないそうです。ところが、羊飼いになれた羊は、羊飼いが導くところへ、また草が生えたところへ群がって移動するので、羊飼いがいなかったり、その群れから離れたりすると道に迷ってしまうのです。
 こういう観点から見ると、修道者は道を整える人なのです。そして司祭はキリストから羊を導く権能を授かった人なのです。そこで、道に迷った誰かがいれば、修道者から、また司祭から正しい道を見つけることができます。現代において、私たちの周辺にはどう生活すればいいのか、また今正しく生きているのかと悩み苦しむ人がたくさんいます。子どもから大人に至るまで、自分の人生に確信をもって生きる人は多くないと思います。他の誰よりも間違える恐れが全くないと確信できる、そのような道を歩む人がいるならば、自分が道に迷った時に、彼らを通してまた正しい道を見つけることができるでしょう。彼らがまさしく修道者、聖職者なのです。
 イエス・キリストに従う道にはあらゆる義と真理があり、その最後にはこの道を最後まで歩んだ人々に与えられる永遠の幸福と命が備えられているからです。
(ダニエル・キム・ドンウク〈金桐旭〉神父/韓国殉教福者聖職修道会 カット/高崎紀子)

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