諸聖人 11月1日 マタイ 5・1-12a 神さまの手
諸聖人の祭日には毎年、マタイ福音書の真福八端が朗読される。イエスは八つの宣言を、いずれも「幸い(=マカリオイ)」という言葉で始められる。ギリシャ語としては他の語順の可能性もあるのだろうが、述語を文頭に置いて繰り返すことで、「貧しい」「悲しむ」という人間の姿より先に、「幸い」という福音がまず響く構造になっている。
それにしても、心の貧しい人、悲しむ人、迫害される人が、どうして幸いなのだろうか。私たちには、近くで泣いている人に「あなたは幸いだ」などと到底言えるはずがない。苦しみを祝福として説明すれば、福音が新たな傷をつくりかねない。しかし、この言葉を語ったのは誰であったろう。イエスは安全な場所から人々を眺めておられたのではなかった。飼い葉おけに寝かされ、十字架上で大きな叫び声を上げ、死を経て復活されたのである。だからこそ、この「幸い」という言葉を真実なものとしているのは、苦しむ人の理解や信仰の強さではなく、イエスご自身なのである。
それ故、イエスは泣く人に「もう泣くな」とも、「強くなれ」とも言われない。ただ、「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」と約束される。「慰められる」「満たされる」「憐れみを受ける」。聖書学で「神的受動態」と呼ばれるこれらの受け身の背後では、神ご自身が働いておられる。慰め、満たし、憐れんでくださるのは神である。従って、これは人間に何かを成し遂げよと迫る言葉ではない。私たちのために神が働いてくださるという福音なのである。
人生には築いてきたものが突然崩れ、大切な人や場所、思い描いていた未来さえ失われる時がある。その苦しみに、私たちは安易に「きっと意味がある」とは言えない。神の子が人となられたのは、苦しみの理由を説明するためではなく、人間の苦しみのただ中にも神がおられることを示すためであった。
ところで、八つの幸いの最初と最後は、「天の国はその人たちのものである」という同じ言葉で囲まれている。これはマタイがしばしば用いる文学的な「包摂」である。日本語訳では見えにくいが、間の六つの約束が未来形であるのに対し(直訳すれば、「慰められるだろう」「満たされるだろう」などとなる)、この二つだけはギリシャ語の直説法現在形で書かれている。最初と最後に置かれた二つの現在形が、六つの未来の約束を囲んでいる。泣き、飢え、渇く人は、いつの日か天の国に迎えられるだけではない。涙の谷で慰めの完成を待つ今も、一瞬たりとも神の支えの外に置かれてはいない。二つの現在形は、あたかも神の両手のように、その人の「今」を両側から包んでいるのである。
最後に、イエスの言葉は「その人たち」から「あなたがた」へと変わる。これは遠い昔の聖人たちだけに向けられた言葉ではない。今ここで希望を探し続ける一人一人への呼びかけなのである。人には、涙が止まらず、一歩を踏み出す力さえ見いだせない時がある。その時、主はその人の傍らに留まり、共に重荷を担ってくださる。私たちが諦め、疲れ果て、その御手を離してしまいそうな時にも、神の両手は私たちの「今」を包み、決して離さないのである。
(熊川幸徳神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子)

