年間第23主日 9月6日(被造物を大切にする世界祈願日) マタイ 18・15-20 兄弟を得る
今日、朗読されるマタイ福音書第18章は「共同体の章」ないし「教会の章」と呼ばれている。しばしば指摘されるように、四福音書の中で「教会(=エクレーシア)」という語を用いるのはマタイだけである。この語は二つの場面に現れる。一度目は16章18節、ペトロに天の国の鍵が授けられる場面である。「あなたはペトロ。この岩の上にわたしの教会を建てる…あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれ、地上で解くことは天上でも解かれる」(16・18-19参照)。伝統的解釈によれば、ここではペトロの権威と「普遍教会」が念頭に置かれている。二度目が今日の箇所。ここでの「教会」は我々が日々顔と顔を合わせる「地方教会」、目に見える共同体を指すと解釈されている。従って「つなぐこと、解くこと」が、今度は具体的な共同体に向けられていることになる。
では、実際の共同体で兄弟が罪を犯した時、どう対処すべきなのか。イエスの言葉は厳しい。まず二人だけで忠告し、聞き入れなければ一人か二人を伴い、それでも聞き入れなければ教会に申し出なさいと記されている。「教会の言うことも聞き入れないなら、異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」とまで言う。これは軽い言葉ではない。教会は罪を曖昧にせず共に向き合う共同体なのである。神のひとり子は「私たちの罪のために」死んだのであり、もし罪の現実を軽く扱うなら、我々はキリストの贖いの意味を見失ってしまう。
しかし、この厳しさを受け止めた上で、なお問い直す必要があろう。この一連の手続きは何を目指しているのかと。その答えは最初の言葉に示されている。「言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。目指されているのは相手を言い負かすことでも、自分の正しさを証明することでもない。兄弟を得て、傷ついた交わりを回復することである。
さらに、その回復は人間の善意や正論だけでは実現しないという点も福音の大切なメッセージである。イエスは地上でつなぐこと、解くことについて語った後、祈りにおけるご自身の臨在を約束される。「二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいる」。スイスの新約聖書学者ウルリヒ・ルツ(1938-2019)が強調するように、罪の指摘、共同体の判断、和解という困難な務めは、人間の裁定だけに委ねられてはいない。祈りとそのただ中におられるイエスによって支えられている。
忠告する者もひとりの罪人である。祈りのうちに自らも赦しを必要とするひとりの人間であることを素直に認め、謙遜になることが求められる。「私は兄弟を得たいのか。それとも自分の正しさを認めさせたいのか」。祈りながら、相手の救いと共同体の回復を願ってひざまずくのである。こうした祈りによってこそ、忠告の言葉は断罪に堕することなく、回復へ向かう愛の行為となり得る。
我々は主の名によって集まり、互いのために祈りつつ、罪と真剣に向き合う共同体として召されている。罪を曖昧にせず、しかし兄弟を見捨てず、兄弟を得ることを願って、共に歩む共同体でありたい。
(熊川幸徳神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子)

