年間第18主日 8月2日 マタイ 14・13-21 世に広がる祭壇
今週朗読されるのは、いわゆる「パンの増加の奇跡」と呼ばれている箇所である。四つの福音書全てがこの物語を伝えているが、強調点は異なる。例えばヨハネ福音書には最後の晩さんにおける聖体制定の記述がない代わりに、パンの増加などを含む第6章の全体を使って聖体の神秘を明らかにするという特徴がある。ところがマタイ福音書には聖体制定の記述があり(第26章)、その上でパンの増加においても聖体を思わせる響きを与えている。何故であろうか。
まず注目したいのは、イエスが群衆を座らせた場面である。ギリシャ語ではアナクリノーという動詞が使われている。これは単に腰を下ろすという意味の座るではなく、横たわる、食事の席に着くという意味を含み持つ語である。ルカは生まれたばかりの幼子を「飼い葉桶に寝かせた(=アナクリノー)」(ルカ2・7)と記す際にも同じ動詞を用いている。日本語で横たわるといえば休息や睡眠を連想しがちだが、古代地中海世界には横臥(おうが)して食事をする習慣があった。最後の晩さんも同様であったと考えられている。つまりイエスは群衆をただ草原に座らせたのではなかった。彼らを神の食卓に招かれた者として整えたのである。
次に注目したいのは、これがエウカリスチア(感謝の祭儀)をほうふつさせる箇所でありながら、そこには祭壇も特別な空間も用意されていない点である。あるのは、草の上に広がる群衆の姿、夕暮れ、そして乏しいパンだけである。しかし、それが主の食卓になったのである。このことは聖体が閉ざされた空間の中で、特定の人間によってのみ守られるものではないことを示唆している。イエスはパンを取り、賛美し、裂き、弟子たちに与える。弟子たちはそれを群衆に配る。この流れは最後の晩さんを思い起こさせると同時に教会の姿を示している。教会はキリストから命のパンを受け取り、それを人々の飢えの中へ運び出す共同体である。聖体は内側に閉じこもるためのものではなく、世界とつながるためのものである。私はここに「出向いていく教会」の原型が描かれていると考えてみたい。
最後に、この箇所では私たちの奉献が問われている。ミサにあずかるとは聖体を「頂く」ことだけではない。弟子たちは五つのパンと2匹の魚を差し出したのである。それは群衆の前ではあまりにも貧しいものであった。しかし、イエスの手に渡されると人々の飢えを満たすものへと変えられた。私たちもミサの中で貧しいものを差し出すのである。1週間の疲れ、弱さ、失敗、それらを全部祭壇に置くのである。
聖体とはキリストを頂く神秘であると同時に、私たちの貧しさがキリストの手に渡され、誰かを生かすパンへと変えられる神秘でもある。だからミサは、頂く場であり、ささげる場であり、遣わされる場でもある。こうした側面は最後の晩さんの記述だけでは十分に語り尽くせない。だからこそ、マタイはパンの増加の出来事を書き足し、そこに聖体を思わせる響きを与えたのではないか。草原で始まったこの食卓は、今も世界の飢えと混乱の中へと広がっているのである。
(熊川幸徳〈くまがわ・ゆきのり〉神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子)

