年間第22主日 8月30日 マタイ 16・21-27 そんなことがあっては…

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年間第22主日 8月30日 マタイ 16・21-27 そんなことがあっては…

 愛する人から「私は多くの苦しみを受けて殺される」などと宣言されて動揺しない人はいないでしょう。重い病気が悪化してしまった人から、「私は死ぬかもしれない」と本心を打ち明けられることはあるかもしれませんが、イエス様のこの言葉はまるで自ら殺されに行くような印象すらあります。

 だからこそ、ペトロの反応は私たちにはとても自然なものとして映るでしょう。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」。しかしイエス様は「サタン、引き下がれ」と真っ向から戒めるのです。イエス様に死んでほしくないという切実な思いにこのように答えたのは何故でしょうか。戒めに続く「神のことを思わず、人間のことを思っている」とは何を指し示しているのでしょうか。

 「神のこと」については、十字架の死と復活を信じる人にとって、イエス様が苦しみを受けて殺されることは神様の計画だったと知っています。それを阻むことは人類の希望を閉ざそうとすることに等しいため、イエス様が戒められたのにも納得ができます。どのような苦しみなのかも理解していたはずだと考えると、すさまじい覚悟を持っての一言だったと思います。

 さて、その上でペトロの発言を思い起こしてみると、神様の計画を阻んででも自分を安心させようという目的が推測できます。なるほど、サタンの働きも想像できるレベルで、まさに「人間のことを思っている」時の発言になります。

 しかし、ペトロのこの思いは、私たちにとって他人事ではありません。たとえ「死んでほしくない」というような切実な思いであっても、自分が何を望んでいるのかを見つめる必要があります。ともすると、単に自分を動揺させてほしくないから、自分が見たくないものを避けたいから、自分に大変なことが引き継がれるから、そのような思いが優先されてはいないでしょうか。

 そこでイエス様は「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」と教えてくださいます。イエス様はその愛のゆえに、全ての人のために全てをささげて共に歩んでくださいます。私たちも自分のことを二の次にして、共に歩もうとする心を備えていたいものです。死を意識する人の声を聴きましょう。自分にできる支援があれば与えましょう。できることがないとしても、祈りましょう。心の支えになる人の存在、そこから伝わる神様の愛こそ、苦しむ人にとって何よりの希望の光となります。
(大久保 武神父/大阪高松教区 カット高崎紀子)

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