年間第17主日 7月26日 マタイ 13・44-52または13・44-46 天の国のたとえ
マタイ福音書の13章にはイエスのたとえ話がまとめて収められています。その締めくくりとなる四つのたとえを語っているのが本日の福音の箇所です。
一つ目の「畑に隠された宝を見つけた人」と、二つ目の「高価な真珠を見つけた商人」のたとえは天の国についてです。天の国とは場所や空間のことではなく、「神が支配する」という意味で、状況や状態のことです。神の支配(望み)が実現している状況・状態が天の国です。二つのたとえに共通しているのは宝を見つけたとき、また高価な真珠を見つけたとき、「持ち物をすっかり売り払ってそれを手に入れた」ということです。隠されていた宝を見つけた者の喜び、探し求めていた真珠を見つけた者の喜びが強調されています。それほどまでに天の国は価値のあるものだということです。
もう一つ考えられるのは私たちとキリストとの関係です。宝や真珠は私たち一人一人のことです。宝を見つけた人、真珠を探していた商人とはキリストのことです。神は私たち一人一人のことを、価値ある者として探し求めておられるということです。神が人間を探し求めているというテーマはほかの福音書の中にも見られます。
三つ目のたとえ話も天の国についてですが、前の二つとは内容が違います。天の国は「湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める網」にたとえられています。網が投げ降ろされて魚を集めるのは、全ての人は神によって天の国に招かれていることを教えています。しかし、集められた魚が良いものと悪いものに選(え)り分けられるのは、招かれたけれども天の国に入れない者もいるということでしょう。ここでは終末の裁きが暗示されています。マタイ福音書における裁きの特徴は二つに分けられることだと説明されています(マタイ25・31-46参照)。
最後にイエスは「天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」と言っています。天の国のことを学んだ学者とは弟子たちのことです。一家の主人とはイエスのことです。イエスの弟子になるには天の国のことを学ぶ必要があること、それを続けるならばイエスに似た者になれるということでしょうか。ありがたい励ましです。古いものとは旧約の教え、新しいものとはイエスによってもたらされた天の国の価値観です。
(立花昌和神父/東京教区 カット/高崎紀子)

