年間第13主日 6月28日(聖ペトロ使徒座への献金) マタイ 10・37ー42 弟子を派遣する

 使徒と呼ばれる弟子を選び出し、宣教へと派遣するに当たってイエスはさまざまな指示を説教という形で行っています(マタイ10.1-42参照)。この説教の結びの部分が本日の福音の箇所です。

 まず、イエスは弟子たちに確かな覚悟を求めています。
 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」と言っています。
 「また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」とも言っています。
弟子は家族との関わりよりもイエスとの関わりを優先することが求められるということです(家族への愛を否定しているのではありません)。
 またイエスに従うことによってもたらされる試練や困難を引き受けていくことも求められるということです。

 次に、イエスは「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と断言しています。
 イエスの弟子とは何よりもイエスとつながって生きる者のことです。イエスとのつながりを失うならば、もはや弟子はイエスから遣わされた者として宣教することはできません。
 またイエスとのつながりを生きようとする者は、決して命を失うことがないと励ましています。イエスは十字架の死と復活を通して命を与えることができるお方だからです。

 最後にイエスが遣わす者を受け入れる人への報いについて語っています。
 イエスが派遣した宣教者を受け入れることは、イエスを受け入れるということです。それはとりもなおさずイエスをこの世へと遣わされた父である神を受け入れるということです。
 「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける」と説明しています。
 預言者、正しい者というのはイエスが遣わす宣教者と同じ意味でしょう。
 「わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」とイエスは説教を締めくくっています。
 弟子たちがもたらす福音を受け入れるならば、その人たちがどんなに大きな報いを受けることになるか、イエスは宣教の働きの重要さを弟子たちに悟らせようとしています。
(立花昌和神父/東京教区 カット/高崎紀子)

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