年間第12主日 6月21日 マタイ 10・26ー33 最後の最後まで…

  「隠されているものすべては知られて明らかにされる」というイエス様の言葉に私たちは「隠していることについて後で怒られるのではないか…」とドキッとしてしまう時があります。

 さらにイエス様は「人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う」(同33節)と言われました。私たちにはさまざまな事情があって、イエス様を知らないと言うことがあります。神様より自分の望みを優先させてしまうとき。人を傷つけてしまったとき。お祈りしたい、ミサに行きたい。しかし、自分だけがカトリックのお祈りをしたり、ミサに行ったりすることはできないとき。もう疲れていて今日は休みたいとき。教会の事は忘れてしまったと諦めてしまったときなど。後でそのことを神様に怒られるのではないか、知らないと言ってしまった自分を神様は見捨てられるのではないかと…。苦しみ悩みながら「今はイエス様のことは知らない」と…。

 「しかし主は、恐るべき勇士としてわたしと共にいます」(エレミヤ20・11)
 ユダに引き渡され、イエス様は捕まりました。ペトロは捕まっているイエス様のことを人々に「あの人とわたしは関係ない」と否定しました(マタイ26・69-75)。もし、この時捕まっているイエス様が「わたしはあのペトロを知っている。わたしの仲間だ外」と人々に言ったら、どうなっていたでしょうか? 実際、あの時ペトロはイエス様と一緒に捕まらずにすみました。
 私たちが人々の前で力強く信仰を宣言することができたのか? 命を顧みず殉じたのか?ではなく。イエス様はどんな時も私たちと共にいてくださっています。
 鶏が鳴いたその時、「イエス様はこんな弱いわたしと今も共にいてくださっている。わたしをまだ救おうとされている」。自分の弱さに打ちひしがれながら、ペトロはイエス様のやさしさに包まれて激しく泣きました。

 「主は貧しい人の魂を 悪事を謀る者の手から助け出される」(エレミヤ20・13)。
 私たちもイエス様のやさしさを思い出しては「ごめんなさい。イエス様と共に歩むことができなくて。ごめんなさい。信者として強く生きることができなくて。ごめんなさい。イエス様を知らないと言ってしまって」と涙を流す日があります。

 イエス様はそんな私たちを責めません。私たちの弱さと最後まで共にいてくださり、救おうとしてくださっています。あの時黙ってペトロをお救いになられたように。
 「ほら、見てください。わたしは世の終わりまでのすべての日、あなたがたと共にいる」
 (マタイ福音書、イエス様の最後のことば)

(寺浜亮司神父/福岡教区 カット/高崎紀子)

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