年間第27主日 10月4日 マタイ 21・33-43 隅の親石

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年間第27主日 10月4日 マタイ 21・33-43 隅の親石

 今日朗読される福音は、「救済史の要約」と呼ばれることがある。繰り返し遣わされる僕しもべたちは旧約の預言者たちを、最後に遣わされる息子は神のひとり子イエス・キリストを想起させるからである。マタイは「(農夫たちが)息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまった」と記す。もし仮に、今日の箇所がここで終わっていたなら、神の愛も忍耐も踏みにじられ、物語は人間の罪によって閉ざされたように見えたであろう。
 ところが、福音記者は「息子」の死を語った後に、詩編の言葉を引用する。「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」(詩118・22)。この引用によって物語の焦点は、人間が何をしたかということから、その後、神が何をなさったかということへと移っていく。農夫たちの最後の行為は「殺した」である。しかし神の最後の言葉は「隅の親石とした」なのである。

 ここに復活の光を見いだすことができる。十字架は、人間が神のひとり子を退けた場所である。しかし、神はその拒絶を救いの終わりとはなさらなかった。捨てられたひとり子を救いの要とし、死の場所から新しい命を始められた。救いの歴史とは、人間が一度も失敗しなかった歴史ではない。人間の不忠実にもかかわらず、神がご自分の約束をたがえず、救いの働きをやめなかった歴史である。その同じ神の忠実は、今も一人一人の歴史の中で働いている。
 これこそがキリスト的希望の根拠だと言えよう。人生には、自分の過ちによって壊れてしまった関係もあれば、どれほど祈っても思うようにならない出来事もある。努力する力さえ失い、自分の歩みには何も残っていないように感じる時もある。しかし、我々が終わりだと判断する場所が、神にとっても終わりであるとは限らない。神は、捨てられた石を拾い上げ、そこから新しいものを築くことのできるお方である。

 もちろん、これは失ったものが全て以前と同じ形で戻るという意味ではない。傷がなかったことになるわけでもない。しかし、傷を抱えたままであっても、我々は神と共に新しい歩みを始めることができる。そこで求められる「実」とは、自分の力で立派な成果を示すことではない。「隅の親石」であるキリストに結ばれ、今日置かれた場所で、誰かを赦し、支え、時には待つという小さな行為を静かに積み重ねることである。
 だから、我々は過去の失敗を人生最後の言葉にしなくてよい。最後の言葉を語られるのは神だからである。人が捨てた石を救いの礎とされた主は、今も、失われたように見える場所から新しい命を生み出してくださる。その神の御み手に自分を委ねて生きるところから、新しい命は始まるのである。
(熊川くまがわ幸徳ゆきのり神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子)

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