戦地フィリピンと沖縄 「記憶の癒やし」 ゆるしと和解へ 宮城涼子修道女(聖マリアの汚れなき御心のフランシスコ姉妹会)に聞く

目次

戦地フィリピンと沖縄 「記憶の癒やし」 ゆるしと和解へ 宮城涼子修道女(聖マリアの汚れなき御心のフランシスコ姉妹会)に聞く

 宮城涼子修道女(91/聖マリアの汚〈けが〉れなき御心のフランシスコ姉妹会)は、フィリピンで生まれ育ち、11歳の頃、現地で太平洋戦争の終戦(1945年)を迎えた。後に沖縄で修道生活を送る中、日本人男性に対して激しい嫌悪を感じるようになったことをきっかけとして、祈りのうちに自身の奥底にある戦争の記憶へと降りていく体験をする。同会与那原(よなばる)修道院に宮城修道女を訪ね、フィリピンでの戦争体験と、「記憶の癒やし」から始まったという、ゆるしと和解の歩みについて聞いた。

取材に当たり、これまでの関わりを忘れないために
保管しているという資料を取り出す宮城涼子修道女

1.フィリピンでの戦争体験 きょうだいを失う
2.沖縄・フィリピンでの歩み ゆるしと和解 宣教へ

 「ハポン(日本人)は、嫌い!」
与那原教会の聖堂に
立つ宮城修道女

 宮城修道女は、太平洋戦争が始まる6年前の1935年、沖縄出身の両親の下、フィリピン・ミンダナオ島で生まれた。
 さかのぼること約20年。ミンダナオ島には沖縄出身の大城孝蔵がフィリピン移住監督として赴任し、後に大城の呼び寄せで島に多くの沖縄出身者が移り住んだ。30年代後半、中心部ダバオにいた沖縄出身者は約1万人。アバカ(マニラ麻)栽培の農園経営、麻製造などの商工業は発展し、太平洋戦争開戦前には、日本人がダバオの経済を支えるようになった。

 「父はアバカのロープ工場の工場長で、私たち家族はずっとダバオにいました。沖縄は長男しか家の財産をもらえないので出稼ぎが多く、三男だった父も出稼ぎに来ていました」
 自宅は工場の敷地内にあり、宮城修道女は、工場で働くフィリピン人労働者の子どもたちと一緒に遊んで育った。小学生になるとダバオにある日本人学校に通い始めるが、帰宅すれば、高床の自宅の下のスペースで遊んでいるフィリピン人の子どもたちに混じった。
 「労働者の子どもたちは学校に行っていませんでしたが、私は自分が友達と同じフィリピン人だと思っていましたね」
 だが真珠湾攻撃による日米の開戦(41年)を機に、日本人移民はフィリピンで敵性外国人となる。当時フィリピンは長年続いた米軍統治からの独立に向けて米政府の下で準備を進めており、日本人は米国人やフィリピン人によって強制収容された。
 日本軍がミンダナオ島に上陸して軍政を敷くと、日本人は解放され、今度は多くのフィリピン人が殺された。
 宮城修道女が「自分は日本人だ」と強く意識したのは、日本軍が複数のトラックで工場に乗り付け、自身の目の前で労働者たちを連れ去った時だったという。
 日本軍は、日本人や軍に対して敵愾(てきがい)心を募らせていたフィリピン人が暴動を起こすことを恐れ、その労働者を生き埋めにして殺した。遺族はどこかへ「散り散りに」なった
 以来、一緒に遊んで育った友達も「私に向かって『ハポン(日本人)』『日本人は嫌いだ!』と。そこで初めて、自分はこの子たちと違うのだと分かったのです」
 父親は工場を続けることができなくなった。「日本人男性は兵隊に取られましたが、父は健康上の理由からか、なぜか残っていました。米軍がミンダナオに上陸する前で、外から来た日本軍兵士はフィリピン人や日本人移民に気ままに暴力をふるうなどわがまま放題で、子ども心に『嫌な人たちだな』と思っていました」 

 守り切れなかったいのち

 1944年、米軍が日本からのフィリピン奪還作戦を開始すると、多くのフィリピン人が米軍を歓迎し、ゲリラ活動に参加。45年春からのミンダナオ島の戦いでダバオは激戦地となり、日本軍と民間人は山岳部へ退却した。
 「父が『避難命令が出た』と言ったのを覚えています。工場は内陸でしたが、米軍の戦闘機から丸見えでしたから、私たちは水牛に載せられるものは載せて山の方へと、残された沖縄出身の母親たち、その子どもたちと一緒に逃げました」
 父は水牛を引き、長男は歩き、母は当時2歳の次男を背負い、小学生の宮城修道女は、まだ1歳にもならない妹を背負って歩いた。

ジャングルでの戦争体験を語る宮城修道女

 水牛の餌がなくなり、生きられなくなると、大きなドラム缶で水牛を炊き、何日もかけて皆で食べた。
 米軍の爆撃はすさまじく、爆弾が落ちた跡の大きな穴は雨水がたまり、沼になっていた。穴と穴の間は人が一人ようやく歩けるほどの幅で、その穴に水牛も馬も落ちていった。人間もはい上がることはできなかった。
 宮城修道女は崖の断面から出ていた木の根を掴み、穴に落ちないよう慎重に穴のへりを進んだ。倒れてうじがわいている人もいたが、その遺体の上を踏んで歩くしかなかった。
 敵は、子どもの泣き声や人気(ひとけ)を捉えた場所に爆弾を落とすようだった。「一番怖かったのは、爆弾の破片です」。飛んできて、目の前で人の首や足を切り落とした。
 やがて避難者たちは、米軍の偵察機が飛ばない夜間に歩くようになった。昼間は、蚊ではなく爆弾の破片を避けるために蚊帳を吊って寝た。
 数日かけ、山中のジャングル奥地に入った。安全な場だが、「簡単に食べられるバナナなどはありません」。食糧が尽きると、宮城修道女の父は母親たちを先導して食べ物を探しに出た。ジャングルは広大で、戻るのはたいてい2~3日後だった。
 子どもたち15人ほどで留守番をしていた間に、「そのこと」は起きたという。
 「最年長は私。(妹の)ちびちゃんは、お腹が空くから泣くわけです」
 あやそうとしていると、目の前に一人の日本の敗残兵が現れた。妹たちの泣き声で敵に見つかるのを恐れたのか、敗残兵は「うるさい!」と怒鳴ると、「物を捨てるみたいに妹と弟を取って」、目と鼻の先の崖の下へと放り投げた。下には大きな川が流れていた。
 その後、親たちが戻ってきた。宮城修道女が何も言葉にできずにいると、父親は全てを察したかのように、姿の見えない弟と妹について何も尋ねなかったという。
 弟と妹を守り切れなかったという自責の念が心に刻まれた。

 修道召命の芽生え

 その事件以後は集団で敵に見つかることを恐れ、家族ごとに避難した。しかし宮城一家は米軍に捕えられ、ダバオの収容所までトラックで“護送”された。
 「当時、多くのフィリピン人は(住民の虐殺を続けた)日本人を殺そうと、麻を切る大きな“なた”などを振り回し、暴動を起こしていたからです」
 夜が明けると、フィリピン人が収容所のフェンスにしがみつき、中に向かって「日本人は殺す!殺す!」と叫んでいたという。
 宮城修道女は11歳の時に家族と共に船でフィリピンから引き上げ、横浜へ。川越(埼玉県)で日本の教育を受けた後、沖縄へ渡った。その後、父親の出身地である沖縄本島北部の喜如嘉(きじょか)を経て石垣島へ移り住む。
 当時高校生だった宮城修道女は、島で困窮する人々に奉仕する2人のカトリック司祭に心を動かされ、受洗。信者ではなくても、病のため人里離れた小屋に隔離されていた人を信徒が訪問する姿にも触発された。
 「私は生涯をかけて、そういうことをしてみたい」
 そんな願いが心に浮かび、戦後、沖縄で創設された聖マリアの汚れなき御心のフランシスコ姉妹会に入会する。

 宮城修道女を取材で訪ねたのは、沖縄で「屈辱の日」と呼ばれる4月28日だった。
 74年前(1952年)のこの日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は主権を回復した。だがこれと引き換えに、沖縄、奄美(鹿児島)と小笠原(東京)は米国の施政権下に切り離された。屈辱の日とは、沖縄での27年にわたる過酷な米軍統治と、現在も続く過重な基地負担の原点とも言える日だ。
 沖縄が日本から切り離された当時、フィリピン出身で日本人としての意識が薄かった宮城修道女は、その出来事の重みがよく分からなかったと言う。
 「私は(日本人ではなく)琉球人だと思って過ごしていましたから。でも、そう思っているうちはまだ良かったですね」
 宮城修道女は修道生活を続ける中で、ある時から、修道院を日本人男性が訪ねてくると鳥肌が立ち、激しい嫌悪が込み上げるようになった。
「理由は分かりません。でもそれが解決されるまで私の霊的成長はないし、修道召命の妨げになると感じました」
祈りの中で、「(自分に起こり始めた)これ(異変)は何ですか? 教えてください」と神に尋ね続けたという。

 深い祈りの中で

 終生誓願10年を機に、東京で再養成の研修を受けていた時だ。黙想指導をしていた仙台の聖ウルスラ修道会の修道女と出会い、個人指導を受けることになった。

「記憶の癒やし」について
振り返る宮城修道女

 「日々みことばを祈り、週に1度そのシスター(修道女)と面会しながら、自分の過去に戻っていくプロセス(過程)をたどっていきました。そして半年もたつ頃、祈りの中で自分の内面の、小学校1年生のあたりにまで戻り、そこで初めて(心の奥底から)大きく叫んだんです。『日本人は、嫌いです!』と」
 自分では全く意識していなかった感情だった。続いて、かつて目の前に現れた敗残兵が心に浮かんできた。
 「それまでは、例え司祭であっても、日本人であれば大声を出したりきついことを言ったりすると鳥肌が立っていましたが、それは日本兵の記憶と重なっていたからなのですね」
 祈りに深く入るプロセス自体に、そうした過去の深い傷すらも神の愛の内に自分のものとして受け入れていく「記憶の癒やし」があったという。深く傷ついた感情や記憶は、自分で意識することが難しい。だがそれらは、自分本来の神へと向かう祈りや霊的な動きを歪め、隣人を愛することの妨げとなるため、癒やしが必要とされる。
 宮城修道女がその祈りの過程で気付いたのは、自分に「ゆるされていない部分、ゆるしていない部分」が残っていたことだった。あの虐殺を行った敗残兵と自分が、「同じ日本人」であるという事実を受け入れられずにいた。

 解放の始まり

 ある時、アジアの女子修道会の代表が集う大会に日本から参加した修道女らが、「日本はアジアを侵略したのに、何の謝罪もしていないでしょう?」と詰問され、帰国したことがあった。
 そこで日本の代表らは「生の声を聞こう」と、フィリピンでの体験学習を計画。第1回のプログラムはスラム街、スモーキーマウンテン、ストリートチルドレンなどがテーマだったが、会の代表として参加予定だった宮城修道女は、「どうしてもダバオに行きたい」と事務局に要望を出し、訪問地に加えてもらった。
「記憶の癒やし」によって日本人男性を嫌悪する原因が判明した後、次に必要だと気付いたのは、「日本人としての償い」。「実際にその人たちに会い、私が見たこと・聞いたことを話して、お詫びをしたいと思うようになったのです」
宮城修道女はミサの前、自分がいただく御聖体を1枚とって器に入れるごとに、「フィリピン・ダバオに行けるチャンスをください」と願い続けた。そして3年たつ頃に参加をと声がかかったのが、フィリピンへの体験学習だった。
 1週間の体験学習の中で、フィリピンの人たちの心の中に、日本の虐殺による深い傷が世代を超えて残っていることも知った。
ある日、意を決して、体験学習で行動を共にしていたフィリピンの人たちに、「私は小さい時からフィリピンにいた」のだと切り出した。戦争中、日本軍の残虐な行いを見たこと、そのため自分は「本当に申し訳ないことをした」(加害の)側の者として、「お詫びをするために来ました」と、自分の思いを分かち合った。
 すると話に耳を傾けていたフィリピンの人たちは、ギターを弾き、踊り、宮城修道女ら日本人を歓迎してくれたのだという。
 宮城修道女がギターの伴奏に合わせて沖縄の民族舞踊「カチャーシー」を踊ると、皆が立ち上がり、フィリピンの人たちは自分らのバンブーダンスを踊り始める。それら二つの踊りは、やがて音楽、歌、踊り、笑顔の中、互いに手を取り合う踊りとなった。フィリピン人、日本人にとって「それは解放の始まりでした」。

 きっと“宝”が出てくる

 宮城修道女は自身の戦争体験をあまり話してこなかったというが、戦後80年の昨年6月は沖縄の新聞の取材に応じ、思いがけず1面トップで大きく取り上げられた。
 「最後の証言をしなければ」という使命感に突き動かされてのことだったが、近所へ買い物に行くと、レジ係の人から「『読みましたよ~』と言われ、とっても恥ずかしかった」と話す。
 だが、何ごとにおいても「関わり」を大切にしているという宮城修道女は、そこで終わらない。
 そのレジ係の人に、家族に戦争を体験した人はいるかと聞いた。「おばあちゃんがまだ元気でいます」と言うので、「おばあさまから戦争体験を聞かせてもらったことはありますか?」と尋ねると、「いえ、(祖母は)絶対に話しませんから」と返ってきた。
 そこで宮城修道女は、こう伝えたという。
 「本人から話し出すのは難しいだろうけれど、あなたが孫としてね、『その体験はどんなことだった?』と聞いてごらん。そうしたら、そのおばあちゃんを通してきっと“宝”が出てくるから。大切に聞いてくれる人がいたら、いつかきっと心を開いてくれるから、必ず、聞いてみてくださいね」
 話すことができないのは、それほどむごい体験だったからなのだと自身の体験から分かる。だがその深い傷の中に、その人のいのちを輝かせる“宝”を見つけることもまた知っている。

 いのちの温もりに導かれて

 宮城修道女が「記憶の癒やし」の黙想で、小学1年生の頃の記憶をたどっていた時だ。指導してくれた修道女から「あなたの中に、神様はいなかった? そこに誰かいたの?」と問い掛けられ、すぐに浮かんだのが父親だったという。そして思い出した。
 「(食料探しから)帰ってきた父は、その時震えていた私に、なぜかこう言ったんです。『ゆるしなさい。ゆるしなさい』と」
 修道女の同伴を受けながら黙想を深め、「あの時、(その言葉を聞かせてくれたのは)イエズス様だったのかな。私は神様の存在を知らなかったが、既に神様のそばにいた」のだと気付いた。
 日本兵への恨みもあったが、神がその場におられたという発見の喜びの方がはるかに「大きかった」という。
 父の「ゆるしなさい」という言葉にはなぜか温もりを感じたが、その感覚と響き合うのが、長男の出産を待ちこがれる父の手から感じた温もりだった。
 「落ち着かなかった父は私の手を握り、家の2階から1階へと下りたり、上がったり」。幼かった宮城修道女は、その父の手の温もりを感じながら、弟の誕生の時を迎えた。
 「ゆるしなさい」という心に響くイエスの言葉と、父の手を通して感じた「いのちが輝く、誕生の時の温もり」とが、心と体の感覚として残り続けている。
 こうして宮城修道女は、沖縄に住むフィリピン出身の女性たちに寄り添い、彼女たちが働く在沖米軍基地の問題にも関わり続けた。志を同じくする教会内外の人々と共に、新基地建設に反対する県民大会やデモに参加。自身はフィリピンでの体験学習を大きな転機としたことから、そうした学びの機会の一助となるよう、県内外から平和学習に訪れる人たちに同伴してきた。
 耳の聞こえが悪くなり、歩行につえが必要になった今も、都合のつく姉妹や信徒の車に乗せてもらい、生活困窮者の物資支援などに出掛けていく。いのちの温もりと共に出会い、関わるために。

宮城修道女

  • URLをコピーしました!
目次