三位一体の主日 5月31日 ヨハネ 3・16-18 「ゆっくり、丁寧に、心を込めて」

 修道会の人事で小学校に勤務していた時、毎朝、正面玄関のマリア様の御像の前で、登校してくる児童たちと挨拶を交わすことを日課としていました。
 小学校に入りたての1年生は、マリア様の御像に向かって、習いたての十字を切る動作を、ゆっくり、時には左右を間違えつつも丁寧に十字を切りながら挨拶をします。一方、最高学年の6年生は慣れた動作で、早く教室に行きたいのか、友だちと遊びたいのか、丁寧さが感じられない適当な十字を切るしぐさとなっていました。その都度、やり直しを一緒にしていたものです。
 慣れることによって、丁寧さを欠き、神様の思いも意味も考えなくなってしまうのだと、自分自身への警鐘と受け取っています。私たちは十字を切る動作を、日に数回、年に数百回以上していますが、慣れによって適当なものになっていないでしょうか。
 三位一体という教義は、分かりやすいものとは言えません。人間が理性と知識によって理解することは困難ともいわれています。 
 しかし、私たちは主の受難、復活、昇天、聖霊降臨という出来事をこの数週間かけて巡ってまいりました。そこに三位一体を考えるヒントがあるように思います。
 結論から言うと、三位一体とは神様の愛そのものです。私たちの罪のために苦しみを受け、十字架につけられ死に至ったイエス様は、その受難の中にあっても多くの人を慰め、ゆるし、人類の救いのために命をおささげになりました。復活によって永遠の命をもたらし、昇天の時に、私たちに生きる意味を教えてくださいました。そして、聖霊降臨を通して初代教会が始まり、神様がいつもそばにいてくださるということを私たちに悟らせてくださいました。
 三位一体の主日は、この受難、復活、昇天、聖霊降臨という一連の流れの中で、神様は私たちのことを愛してくださっているということを強く思い起こす日なのではないでしょうか。今日の福音にも「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3・16)と記されています。イエス様を信じる者は一人も滅びることはなく、永遠の命を受けること、またイエス様が遣わされたのは、世を裁くためではなく、世が救われるためであることも記されています。
 神様の愛によってイエス様が私たちのために遣わされ、神様の愛に気付かせ、神様の愛に浸らせ、神様の愛に満たされていることをイエス様ご自身も愛をもって示してくださいました。そして、この三位一体の神様の愛が、目に見える形で表されるのが、次に続くキリストの聖体なのだと思います。
 ですから、日に数回、年に数百回以上もの十字を切る動作を、慣れによって丁寧さを欠くのではなく、ゆっくり、丁寧に、心を込めて、神様の愛を感じながら、1年生の子どもたちのような気持ちで十字のしるしができればと思います。
(大水恵一神父/コンベンツアル聖フランシスコ修道会 カット/高崎紀子)

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