ルワンダで 手足を失った延べ12000人を支援 ガテラさん、真美さん夫妻の30年

 アフリカ東部の国ルワンダで、30年にわたり障害のある人々を支えている夫妻がいる。夫はルワンダ人でカトリック信徒のガテラ・ルダシングワさん(71)で、妻は日本人の真美さん(63)。二人は、これまで延べ1万2000人のために義足などを製作し、無償で提供し続けてきた。現在、ルワンダの未来を築く子どもたちの支援も視野に、現地と日本の多くの人と共に歩み続けている。

ルダシングワ真美さん㊧とガテラさん㊨

 ルワンダと日本 二人の出会い
 
 1989年、当時、東京・丸の内の会社員だった真美さんは26歳。単調な仕事に疲れ、ケニアに語学を学びに行ってガテラさんと出会った。ガテラさんは紛争の続くルワンダからケニアに難民として避難してきていた。ガテラさんは幼い時の医療過誤が原因で右足にまひがあり、装具を着けながらも自活していた。「浮ついたところがなくて、生きていく力の強い人」と真美さんは感じた。
 日本に帰国した真美さんは、つらい出来事があった時に、ふとガテラさんの顔が浮かんだという。手紙を送り、返事が届き、しばらくやりとりが続いた後、二人の将来を考えるため、真美さんはケニアに飛んだ。
 91年、ガテラさんは日本を訪れた。その時、足の装具が壊れてしまい、二人は横浜市の義足製作所を訪ねて新しい装具を作った。そこでの作業を見た二人は、この技術はルワンダで手足を失った人たちのために必ず役立つと感じる。地雷などによって手足を失った人が多かったからだ。

 ルワンダは、もともと複数の民族が平和に共存していたが、19世紀末以後、欧州の国々による植民地支配によって分断され、民族の間に対立が生まれた。
 ルワンダに戻ったガテラさんは、ウガンダとの国境に近いムリンディという村を訪れた。足には、日本で譲り受けた装具を着けていた。その村は多くのルワンダ人が集まり、虐殺に抵抗した場所だった。人が集まる機会にガテラさんは、自分の装具を見せながら、国が安定し次第、障害者支援プロジェクトを始め、足を失った人のために第二の足を提供する準備があると語り、人々に歓迎された。

 真美さんは、日本で義肢製作の修行を続行。その最中の94年、ルワンダで歴史的な大虐殺が起きる。この時、3カ月間に80万人とも100万人以上とも言われる人々が殺害された。しかも軍関係者だけでなく、一般民衆が、隣人同士や家族の間で殺し合う深刻な悲劇に追い込まれ、学校や教会も、多くの人が集められて虐殺の現場となった。なた等の生活用具が武器となり、手足を切り落とされる人が出た。地雷によるものも含め、ルワンダの障害者の数はこの時、推定80万人とされた。

 真美さんも、しばらくガテラさんと連絡が取れなくなった。
 真美さんは言う。「ルワンダのニュースが映ると、遺体の中に(ガテラがいるのではないかと)探してしまいました。義肢作りも、私自身は立派なことをしている感覚は全くなくて、『ガテラの足を作りたい』という思いで勉強していたので、それがかなわなくなるのかなと思うと落ち込みました」
 それだけに、ガテラさんの無事を知った時はうれしかった。

前進し続けたプロジェクト

 その後、真美さんは5年を超える修行を終え、ルワンダに向かう。ガテラさんと準備を重ね、1997年、首都キガリにNGO「ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」を立ち上げて、義肢製作をスタートさせた。名称の「ムリンディ」は、ガテラさんが最初にプロジェクトの構想をスピーチした場所、「ジャパン」は真美さんの故郷、「ワン ラブ」は敬愛するレゲエ・ミュージシャンのボブ・マーリーが、愛と信仰と連帯を歌った曲のタイトルから取った。
 義肢の提供に当たっては、当初、対価をもらうことも考えた。しかし義肢を必要としている人たちは貧しい人たちばかりだった。二人は、支援として無償で提供することを決めた。それは同時に、多くの人とつながり、善意を頼む道でもあった。二人は講演や報告をして寄付を集めたり、日本で使わなくなった義足を集め、使える部品をルワンダに送ったりした。

 初めて義肢を作ったのは、地雷で足を失ったトラック運転手だった。自分たちが作った義肢に「ありがとう」と言われること、喜んで装着して帰って行く姿を見るのが、一番うれしいと真美さんは話す。「ほかのどの仕事とも同じことだと思います」

 97年、二人の活動に対し、ルワンダ政府から1ヘクタール以上もの広い土地を譲り受けることができ、義肢製作所を建設する。建物は経費節約のため、レンガを焼くところから手作業で始めた。
 義肢製作と並行して、義肢装具士の育成も始める。
 99年には政府と交渉しながら、ルワンダ史上初めての「障害者の日」式典を開催。障害者によるコンサートや運動会を行った。
 2000年には譲り受けた土地全体を「ワンラブランド」と命名し、活動資金を生み出すためにレストランとゲストハウスもオープンさせた。また同プロジェクトで作った義肢を装着した運動選手を、これもルワンダ史上初となる、パラリンピック選手として送り出している。
 地方に住む障害者のために巡回診療を始めたり、技術トレーニングのために、義肢装具士を日本に派遣するプログラムも始めたりするなど、プロジェクトのたゆみない挑戦が続いた。

 新たな悲劇とそこからの再建

 2020年、新たな悲劇がワンラブランドを襲う。
 もともと低地にあったワンラブランドは、敷地内の川がたびたび氾濫し、それまでに5回の洪水被害に遭っていた。
 危険性を考慮した政府が、その地域一帯に立ち退きを命じる事態になった。ワンラブランドは広い敷地に複数の施設があり、すぐには立ち退けないと回答したところ、政府は、翌日にショベルカーを使って強制撤去を実施してしまった。
 「レンガを焼いて積み上げるところからやってきて、私たちにとっては血と汗と涙の結晶でした。もちろん政府の言うことを理解しないわけではありませんが、目の前で重機がバリバリ壊していくのを見るのは、私たちにとって、一番つらい出来事でした」と真美さん。それでも感情的になっている暇はなかった。「どこに移転するか、どうやって荷物を運び出すか、人の手配、トラックの手配、お金はない・・・、泣いている暇はありませんでした」
 ちょうどコロナ禍が始まり、講演活動も中止。「嫌なことが全て重なった気がしました」
 一度は撤退も考えたが、これまでたくさんの人の力を借りて歩んできたことを思うと、二人は続けることを選択。再建に向けて立ち上がる。クラウドファンディングを実施し、ガテラさんの親戚から土地を譲ってもらい、22年5月には新たな拠点をオープンさせた。現在はそこで、義足製作を続けている。

再建されたルワンダの義肢製作所

 子どもたちのために、子どもたちと共に

 大虐殺から30年以上が過ぎても、義足や装具を必要とする人は絶えない。紛争の傷だけでなく、医療の不足や病気、交通事故による損傷も増えた。また義足や装具は、古くなれば取り替える必要があり、子どもならば成長に合わせて作り直す必要もある。
 真美さんは、子どもたちの義足製作を避けていた時期があったという。子どもは体が変化していくので、義足作りの手間もお金もかかるためだ。しかしそれをガテラさんやスタッフから批判された。
 「若者や子どもたちは、これから新しい国をつくっていかなければなりません。ルワンダの人たちはそこへの希望が大きいんです。そのために、子どもたちは学校に通ったり、友達と走り回ったりする必要があるのに、私の考えはそれを阻止していると言われて、ぐうの音も出ませんでした。私にはお金のことしか見えていませんでした。ルワンダの人たちの思いを尊重しなければと思いました」

少女のために義足を調整する義肢装具士
義肢製作所を尋ねてきた少年

 子どもたちから助けられていることもある。
 30年前、真美さんたちが活動を始めようとしていた頃、カトリック新聞にその紹介が載った。それを読んだ京都聖母学院小学校(設立母体=ヌヴェール愛徳修道会)が、支援を申し出てくれた。
 真美さんにとっては、それがカトリックとの最初のつながりだった。子どもたちは自分たちの心からのお金を準備。年に一度、訪問するガテラさんと真美さんに渡してくれた。
 その関係は、30年たった今もなお続いている。
 「当初、まだ活動の形も見えていなかった私たちを支えて、それを続けてくださったことに、感謝しかありません。学校に行くと、毎回、子どもたちが歌を歌ってくれるんです。そのきれいな声を聞くと、私たちはたくさんの人とつながっているんだなって感じて、私はいつもバーッと泣いてしまうんです。ガテラの表情もいつもと全然違って優しいんですよ。子どもたちもガテラの髪を触りに来たりします。本当に幸せな時間頂いています」

「ムリンディ/ジャパン・ワンラブ・プロジェクト」への支援は、こちらのサイト(https://onelove-project.info/?page_id=16)から。

京都聖母学園小学校の子どもたちを前に話すガテラさんと真美さん(2025年夏)

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