今年(2026年)2月に著作選集全3巻(日本キリスト教団出版局)の刊行が完結した、神学者の宮本久雄神父(ドミニコ会)に話を聞いた。81歳という高齢ながら、現在もカトリック渋谷教会(渋谷区南平台)の主任司祭および東京純心大学の教授として活躍している。
その選集は、第1巻「聖書 旅する神のダーバール(言即事)と共に」、 第2巻「キリスト教思想 愛とケノーシスの間にて」、第3巻「エヒイェロギア 自らを超えゆく神の探究」と、長年取り組んできたテーマを三つに大別して表現している。
東京大学教養学部、上智大学神学部で教え、聖書・哲学・神学の諸分野をまたぐ思索と気さくな人柄で、多くの学生たちに影響を与えてきたその歩みを語ってもらった。
前後編、2回に分けて掲載する。

前編 生い立ちから高森草庵との出会いまで
〔生い立ち〕
生まれは戦争末期の1945(昭和20)年2月。
「最も食糧が欠如していた年で、母もほとんど食べるものがなく、母乳も出ず、母から善玉菌を受けることなく、人工栄養で育てられました。私は誕生時から戦争の災厄を身に負っており、それは今日に至るまで私の在り方に影響を与えています」
生まれた所は新潟県高田市の田舎、冬は豪雪地帯だ。
「家の2階近くまで雪があり、2階から出入りすることもありましたよ」「この地方の人はあまりしゃべらないんです。あとで東京に出た時、東京の人はよくしゃべるなあと思いました。関西の人はそれに輪をかけて、しかも方言そのままに話すのにはびっくりしました」
「暴れん坊でした」という少年期だが、小学6年生のとき腎臓炎を患う。
「1年休学しました。その間に、二つの書物との出会いがありました。一つは聖書。ラゲ訳の新約聖書、文語体でした。イエスの福音が衝撃でした。パウロはぴんと来なかった。ヨハネ(福音書)が好きだった。心に染みてくるんです。特にヨハネ17章、イエスが父に祈る、あの祈りのリズムが……」「もう一つ、ルルドで奇跡の治癒を見た医者アレクシス・カレル(1873ー1944)が書いた『ルルドへの旅』という本と彼の回心とが心に染みたのです」

1年遅れで復学し、それから長岡(新潟)で中学・高校時代を過ごす。
「中学では、三浦羌先生との出会いが大きかった。劇団民芸を長岡に呼んできて公演をする先生でした。滝沢修や宇野重吉のヒューマンな人柄や『桜の園』『どん底』などの文芸劇に触れました。他方、マルクスの思想も知り、貧困階級・労働者がいかに生きていけるのかという社会問題に開眼したのもこの頃です。ドストエフスキーやトルストイの実存的作品にも親しみました」「聖書や信仰という霊的世界とマルクス主義の世界観の間で葛藤しました」「家の近所にはカトリック教会があり、フランシスコ会ボローニャ管区の司祭がいましたし、プロテスタント教会にも行ってみたのですが、『カラマーゾフの兄弟』に登場するイワンの無神論について問うても全く両者には話が通じないという感じでした」
〔東京、そして高森草庵との出会いへ〕
浪人して、先生に勧められた東京大学を受験し、入学したのが1965年。教養学部がある駒場キャンパスに近いイエズス会経営のザビエル寮で生活することになる。
「学生の中で一割弱カトリック信徒がいたが、あとは(政治活動に関心のない)ノンポリ、また多くは革マル派やマルクス信奉者という時代でした」
その中で終生の友、山本巍氏(現東京大学名誉教授)と出会う。
「驚いたことに山本君はラテン語の原書でアウグスティヌスの『告白』を読んでいる。これに打ちのめされ、イエズス会の神父さんに頼んで、黙想の家にこもって1週間でラテン語の文法を学習したものです」
「教養学部から本郷の哲学科に移ると、そこでは哲学書を原書で読むのがならいでした。自分も第2外国語をドイツ語にし、カント、ニーチェ、フッサール、ハイデガーなどドイツ哲学を読んでいき、さらにはギリシャ語に手を伸ばして、新約聖書、特にヨハネ福音書、そしてアリストテレスの『形而上学』にも挑んでゆきました。ただアリストテレスは難解でついていけないなと悩んでいたところ、加藤信朗先生の勧めでトマス・アクィナスを読むようになりました。大学紛争の頃です。授業がない間、トマスをラテン語で読み続けるというトマス漬けの日々が始まったのです。読み進むにつれて、トマスのラテン語が人間の心を超越へ向けて運んでいくようなリズム・音楽性に満ちているということがわかっていったのです。大学院では、トマスの『真理論』で修士論文を書きました」
そんな時だ。
「信州の山で、変なおじさんが『高森草庵』という共同体を開いているからのぞきにいかないかと友人に誘われて行きました。それが押田成人神父(1922ー2003/ドミニコ会)との、私の人生をひっくり返す出会いの機縁となりました。彼は借りている農家でこたつを囲みながら本物の赤ワインをごちそうしてくれました。この時、押田神父は、三位一体の話をしてくれました。それから、夏休みの高森草庵通いが始まったのです」「ここで信仰生活と農業中心の労働生活が結び付いていました。朝は座禅式のミサがあり、続いて日中は田畑での労働、夕食後は聖書勉強会がある。労働を通して弱かった体力が大いに増進されました」
そのような労働と信仰が結びついた理想的な生活の中、友人と長崎、津和野(島根)、山口、天草(熊本)など、日本のキリスト教ゆかりの地を行脚し、1966年8月15日(聖母の被昇天の祭日)、高森草庵で受洗。福音史家ヨハネを洗礼名とした。
そして、いろいろな悩みを抱えながらもついにドミニコ会に入会、志願者としての1年を高森草庵で、修練者としての2年間を京都(聖トマス修道院、聖トマス学院)で過ごす。修練長は竹島幸一神父(1930-2000)だった。修練の傍ら、京都じゅうを見物して日本文化の中枢的な何かに触れ、大阪にも足を伸ばして庶民性あふれる漫才を楽しんだという。
やがて、そのドミニコ会カナダ管区の本部、オタワの神学校に入学、ここでの学びの中で、新たな視界が広がっていく。
(つづく)
