在韓被爆2世の体験 “仲間”と出会い 苦しむ人と共に ハン・ジョンスンさん
今夏、韓国で開催された「日韓脱核平和巡礼2026」(韓国司教協議会・生態環境委員会主催/→関連記事)では、「韓国のヒロシマ」と呼ばれる陜川(ハプチョン)を訪れた。陜川は、韓国慶山南道(キョンサンナムド)の山あいにある、在韓被爆者が多く住む町だ。巡礼参加者が現地で出会った被爆2世、ハン・ジョンスン(韓正淳)さん(68/韓国原爆2世患友会会長)の体験を紹介する。
ハンさんは自身にも兄弟姉妹にも皆、病や障害があり、息子には脳性まひがある。苦しんでいた40代の頃、被爆2世であることを韓国で初めて公言したキム・ソンニョル(金亨律)氏(享年35)と出会った。被爆2世たちの救済に向け、仲間と共に活動を始めた。
「死」の影におびえながら
太平洋戦争(1941~45年)末期、ハンさんの広島の家にはハンさんの祖父母、父方の8人のおじ、両親、姉と兄の14人が一緒に暮らしていた。父親は消防士ではないが、消防署で警備の任務に当たり、母親は畑でレンコンをつくっていた。

「45年8月6日の朝、家族は仕事に出かけ、当時妊娠していた母は、部屋で掃除をしていたそうです」
その時、原爆がさく裂した。家の壁も天井も崩れたが、母はがれきの隙間に入って助かった。祖母と3人のおじは、やけどなどの大けがを負った。
8月15日、昭和天皇が玉音放送で戦争終結を国民に伝え、ハンさんらの故郷、陜川を含む朝鮮半島全体は、晴れて日本の植民地支配から解放された。「妊娠していた母は、解放後すぐに(現韓国へ)帰国することができず、その翌年(46年)に帰りました」
帰国後、母は息子2人とハンさんら娘4人の子宝に恵まれたが、被爆2世に当たる6人は皆、健康上の問題を抱えることになった。
まず広島で妊娠し、帰国後に出産した息子は1歳の時に「怪死」し、「恐らく、放射能の影響」だとハンさんは見る。
長女は脳梗塞を、兄は心筋梗塞を発症。韓さんのすぐ上の姉と自身は、細胞や骨組織が死滅する無血性壊死(えし)を患う。ハンさんは下半身の関節が壊死したため手術で人工関節を付けたが、病名が判明するまで長年、ひたすら痛みに耐える日が続いた。
ハンさんは家族に忍び寄る「死」の影におびえ、「自分の体に時限爆弾を抱えているように」感じてきたと次のように話した。
「私は生まれつき体が弱く、特に足は弱くて、よく転んでいました」。親に足の痛みを訴えると、成長の過程で一時的に生じる痛みとして「我慢すればいいんだよ」と言われた。自身もそう受け止めたが、成長とともに痛みは増した。
中学卒業後は、大邱(テグ)に出て働いた。ありつけたのは夜間勤務もある立ち仕事だ。激痛を訴え地元の病院で受診しても、「原因不明の病」と言われるばかりだった。
一人ぼっちになった
ハンさんは仕事を転々とし、24歳で結婚した。25歳の時の出産は「青天の霹靂(へきれき)」という言葉で表現する。生まれた子どもに、脳性まひがあったからだ。
当時は足の痛みに耐えながら息子を育てるのに必死だった。記憶に残るのは、先天性の障害のある子どもを産んだ自身に対する、しゅうとからの冷たい視線だ。夫からの無視も重なり、「息もできないほどの苦しみ」に襲われていた。
二人目の子どもを妊娠した時は、不安と恐れが押し寄せ、涙が止まらなかった。
「産んでもいいのか。また障害があったらどうすべきなのか」「これ以上の痛みが加われば、本当に生きていけなくなる」
産婦人科の前で、「(堕胎の手術を受けに)行こう」と自身を鼓舞するが、体はその場に座り込んだまま動かない。服はいつの間にか、汗と涙でぬれていた。
やがて重い体を起こし、歩いてたどり着いたのは家だった。おなかに宿った生命という「運命」を受け入れるしかない。そう思えてから何カ月か後、第2子が誕生した。健康な子どもだった。
ハンさんはこうして二児の母親になった。足のリハビリに通い、成長とともに手足が曲がり、こわばっていく長男を介助した。
2番目の子どもが5歳になった頃、とうとう足の痛みで「立つことも、歩くこともできなくなった」。医師の診断は、大腿部無血性壊死症。きょうだいから支援を受けて手術を受け、再び歩くことができるようになった。
しかし「助かった」と思ったのもつかの間、しゅうとは「障害児を生んだ上に、自分まで病気を抱え、どれだけみんなを苦しめるのか」と、ハンさんを責めた。夫の賭博癖と暴力にも耐えられなかった。
ハンさんは離婚を決断し、「胸が張り裂ける思いで」息子を手放した。「一人ぼっち」の生活になった。町で息子と同年代の子どもたちを見かけては思わず立ち止まり、泣いた。

原爆被害者福祉会館」で、日韓脱核平和巡礼の参加者に
体験を話すハンさん(2026年6月30日)
仲間がいた
40代で再び足の手術に踏み切り、ハンさんが自身の不幸を少しでも忘れようと、必死だった頃のことだ。あるテレビ番組で、被爆者の子ども世代が遺伝による病に侵され、苦しむ姿が報じられた。番組には自身と同じ病で手術を受けた人も登場した。
ハンさんは、後に自身が会長を務めることになる韓国原爆2世患友会が、陜川の原爆被害者福祉会館で開く集いに参加した。そこで出会ったのが2002年、韓国で初めて自身が被爆2世であることを公表したキム・ヒョンニョル氏だ。
キム氏はきゃしゃで、夏にもかかわらず長袖のジャンパー姿だった。絶えずせき込みながら、用意してきた資料を配り、自身の体験を打ち明ける姿を覚えている。
キム氏は釜山在住で、母親が被爆者だった。肺は健常者の20~30%しか機能していなかった。突発的に肺炎症状が現れ、そのたびに、家と病院の往復を余儀なくされる生活に苦しんでいた。
ハンさんは、キム氏の話に深く「共感」した。それまで原爆被害の遺伝的影響で苦しむ人がいるなどと、考えたこともなかった。だが被爆2世が幾人かいるばかりだったその集いに参加し、自分も韓国被爆2世の人権運動に加わろうと心に決めた。被爆2世の人権問題が、ハンさん自身の問題であることに気付いたからだ。

が納められた納骨堂の前に立つ、ハンさん(右)と日韓
脱核平和巡礼に参加した森山信三司教(大分教区/
左)ら。韓国のパク・ヒョンドン大修道院長(聖ベネ
ディクト会/中)の肩の辺りに千羽鶴が掛けられた
キム氏の区画が見える(26年6月30日)
連帯の中に感じる希望
ハンさんは、自身が40年以上前に脳性まひの長男を出産した際に感じた苦痛について語った時、一言、「これは昔話ではなく、今現在の問題です」と言い添えていた。
それはハンさんのように、韓国の被爆2世・3世の中には今も原爆被害による苦痛を抱えて生きている人たちがいることを指している。韓さんは、こう話す。
広島・長崎での原爆投下から81年たつが、まだ韓国被爆2世、3世は、原爆による被害が認定されていない。「一日も早く認定され、支援を受けるべき」だと思うが、当事者全員に障害があるわけではなく、運動の難しさも感じているという。
自身の長男のように、生まれつき障害を抱える人もいれば、成長するにつれて生じる病や障害に苦しんでいる人もいる。
「私自身、とにかく痛みを抱えながら生きてきました。手術が度々必要で、胆のう、手首・足首などの小さい手術は数えきれないほどで、大きな手術は12回ほどしています」
韓国の被爆2世・3世は、子どもの頃から「本当に貧しい」生活を余儀なくされてきたケースが多く、学ぶ機会を逸したり、医療費の負担に苦しんだりしてきた。
そうした、「さまざまな状況にある人たちを救済していくことが必要」であり、自身が20年近く会長を務めてきた患友会は、その救済のためにあると指摘する。
ハンさんは、救済を願っている一人として、自身が日中、生活の世話をしているAさんについて話した。Aさんは現在55歳だが、知的障害があり、知的発達の程度はおおむね2~3歳に相当する。両親は自分たち亡き後、常に介助者を必要とする我が子の生活、人生がどうなるのかを心配している。
「政府は、そうした障害を早く認定してほしい。それによって(家族の重い負担になっている)治療費も受け取りたいのです」
ハンさんによれば、被爆者のための養護施設である陜川原爆被害者福祉会館の入居者は、被爆1世に限られ、「現在は空室が目立っている」という。
「今も苦しみ続けている私たち2世、3世は入居を望んでいますが、正式な(被爆の)認定を受けていないので、福祉会館への入居資格もない状況です」
ハンさんは自分たち被爆2世・3世の尊厳を守るために行動し、学ぶうちに、被爆で苦しむ人たちが世界中に存在することも知った。核兵器だけでなく、原発事故や核実験などで被爆した人たちも苦しみや孤独を抱えていた。広島・長崎にも、被爆者としての認定を求めている人たちがいる。
誰もが痛みを一人で抱えることなく、支え合い、共に生きていく世界をつくりたい。平和の実現に向け、連帯していく中に「希望を感じています」と、ハンさんは話していた。

