今日の福音は「種を蒔(ま)く人」のたとえ話です。これはイエス様が弟子たちにその意味を直接的に説明してくださったたとえ話としても有名です。このたとえ話を通してイエス様が言いたかった中心的なメッセージは、「み言葉を聞いて悟ることによって実を結ぶ人になりなさい」ということでしょう。
そういうことで、私たちはこのたとえ話をより深く考えなければなりません。私たちは皆、既に言葉の種を受けています。しかし、イエス様のお話のように、ある人はその種が深く根付かなかったので、すぐに枯れてしまい、ある人は世のいろいろな心配や悩みでその言葉が息づくことを妨げてしまいます。また、ある人はその言葉を大切にせず、暮らしの中で失ってしまいます。この話を聞いて誰が「自分には当てはまらないことだ」と確信をもって言えるでしょうか。
もし、今の自分が道端や石だらけの所、あるいは茨でふさがれたような状態だとしたら、どうすればいいのでしょうか。私たちが皆良い土地であればいいでしょうが、実際の私たちの生活は良い土地というより、石だらけの所や茨の中の方に近いでしょう。もちろん、皆がイエス様のお話のように良い実を結ぶことを望んでいますが、思いのままにうまくいかないのが私たちの現実です。
今日の第一朗読で預言者イザヤはこう言います。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える」。雨と雪は一般的に私たちが経験するあらゆる試練を意味します。このような試練がむしろ言葉の種がまかれる私たち自身を豊かな土地としてくれるという意味です。しかし、この試練は私たちが意図したり、つくり出したりするものではなく、神様が与えてくださることでなければなりません。今日の答唱詩編ではこう歌います。「あなたは地を訪れて喜ばせ、豊かな実りでおおわれる。大空に水を蓄え、地に水を注いで麦をあたえられる。田畑に水を送り、土くれをならし、夕立で地を潤して作物を祝福される」。これは、神様はやせ地のような私たちに水を注ぎ、ならし、豊かな土地となるように培ってくださるという信仰を表します。
石だらけのやせ地や茨の中が豊かな土地となるためには大変苦しい時間が必要です。石を取り去り、茨を全て取り除き、言葉の種でないものを根こそぎにしなければなりません。このすべての業(わざ)を行う方はイエス・キリストです。イエス様がこの業を私たちのうちに行われる時、私たちは苦しみと痛みを味わうかもしれません。ところが、最後までキリストのうちにとどまり、耐え忍ぶならば、私たちは神が培う豊かな土地となるのです。この土地でみ言葉が息づくことができるようになれば、わたしたちはこれまで見たことのない良い実を結ぶことになるのです。百倍の実を結ぼうが、三十倍の実を結ぼうが、重要ではありません。たった一つの実だけでも私たちが結んだ良い実は皆、農夫である神のものだからです。
(ダニエル・キム・ドンウク〈金桐旭〉神父/韓国殉教福者聖職修道会)

