司祭との〝縁〟で 勤続40年 鹿児島教区本部事務局 職員 山下眞二さん
山下眞二さん(67)の肩書きは「鹿児島教区広報担当」だが、教区本部事務局(鹿児島市)の仕事は、ほぼ何でもこなす。
「司祭のほかには週3日出勤してくれる会計担当のパートさんと、学校法人の職員さんがいるだけの職場。だから床のワックスがけ、墓地管理もします。引退した神父さん(高齢司祭)の下の世話をしていた時期もありますよ」
司教、司祭、信徒からの依頼に応じる。隣接する鹿児島カテドラルザビエル教会(同市)を訪れた人からの問い合わせにも、にこやかに対応。毎月、教区報も製作する。カメラを抱えて教会の行事を取材し、記事を書く。原稿の依頼、教区報の編集、印刷・発送手配までを担当する。
小学校5、6年生の頃、教会学校で世話になっていた司祭を見ていて、「自分もあんなふうに笑っている神父さんになりたい」と司祭に憧れた。中学校に上がるタイミングで旧・長崎公教神学校(長崎市/現・長崎カトリック神学院)の小神学校に進んだ。
だが自分の道は違うと気付き、高校2年の夏に退学。親は「(学費を負担した)教区に費用の返還を」と周囲に迫られ、一家は教会共同体から距離を置くようになる。大学時代はサッカーとアルバイトに明け暮れた。父親が仕事で失敗し、妹の短大進学が経済的に難しくなった時に助けてくれたのもまた教会の人たちだった。
本部事務局に勤めることになったのは24歳の頃。ラ・サール学園(鹿児島市)の舎監に採用される予定だったが、最終面接の場で院長から突然、〝方向転換〟を告げられる。
「糸永真一司教(鹿児島教区)の下、当時は信徒として司教館で教区報を製作していた小隈憲士神父様(同教区)が神学校に行くと言うので、その後釜にということでした」
自分には司祭召命はなかったが、今でも小神学校で共に過ごした仲間の信仰に〝本物〟を感じている。
「僕がミサ中に居眠りして落ち込んでいた時、ある仲間は僕に『寝とっても良かと(大丈夫だよ)』と、温かくほほ笑んで言うんです。僕にはないような、神様への信頼が身に付いているように感じましたね。その子たちは司祭になりましたよ」
中でも故・赤尾孝信神父(長崎教区)との出会いは、深く心に刻まれている。
赤尾神父は助祭叙階の前、司教館勤めの山下さんに「お前に頼みがある。ご聖体を触るのにふさわしい助祭になれるよう、『めでたし』(アヴェ・マリアの祈り)を唱えてくれろ」と願うために鹿児島までやって来た。だがその赤尾神父は司祭叙階からわずか4カ月後、海で溺れていた教会学校の子どもを助けようとして亡くなった。「一人のいのちに真剣」に生きる信仰を証ししてくれた仲間だ。
一方、自身は「40歳ぐらいまで仕事もそこそこに、サッカーざんまい。結婚も考えていなかった」というが、トレーニング仲間の縁で今の妻と出会う。当時の事務局長、竹山昭神父(同教区)の〝配慮〟も結婚を後押しした。長めの休みをもらい、英国留学中の彼女に会いに行くことがかなったのだ。
仕事が増えて音を上げた時は、竹山神父に一喝された。「世の中には、誰かがやらなければならない仕事がある。それをあなたがやるだけ。あなたがやらないなら、私がやる」と。厳しい一言だったが、ふに落ちた。
定年を過ぎても勤務延長が許され、気付けば勤続43年。これまで教区報に司教と教区司祭だけで、合わせて17人の訃報を書いてきた。一人一人のいのち全てに神の計らいを思う。
「お世話をした司祭にも、けんかをした司祭にも、みんなに育ててもらいました」

