5月15日で日本復帰54年 沖縄から平和憲法を考える
54年前(1972年)の5月15日、沖縄は日本に復帰し、本土と同じ日本国憲法が施行された。
復帰への原動力となったのは、太平洋戦争(1941~45年)末期の沖縄戦で一般住民を巻き込んだ苛烈な地上戦を経験し、戦後は米軍統治下に置かれ続けた沖縄の人々の、平和憲法を求める強い思いだ。
いま国が「憲法改正」を急速に進めようとする中、日本各地で「憲法改悪」に反対する声も大きくなっている。復帰の日に合わせ、沖縄から憲法について考える。
日本復帰―沖縄も平和憲法の下へ
沖縄で憲法記念日が始まったのは、まだ米軍施政下にあった1965年だ。当時の立法院は日本本土と同じ5月3日を祝日に定め、憲法のなかった沖縄で憲法記念日が誕生した。
復帰前の沖縄は27年間、米国の憲法も日本国憲法も適用されない〝憲法の空白地帯〟。沖縄の人々が戦後の復興に努める中、米軍による人権侵害が多発した。
日本国憲法に保障された基本的人権が沖縄の人々にも認められることを目指し、61年4月、市民が「沖縄人権協会」を設立。復帰直前の72年4月には、当時の平良良松那覇市長の提唱によって「沖縄県憲法普及協議会」が結成された。目的は「日本国憲法の原理と精神を普及し、その実現を図ること」だ。
那覇市では66年から例年、人権協会と憲法普及協議会が憲法記念日を中心に「憲法講演会」を共催してきた。
今年、会場では「戦争につながる憲法改悪に反対します―憲法9条改悪に反対する請願署名」への協力が呼びかけられた(日本カトリックいのち・平和・人権委員会が取り扱うこの請願署名の用紙のダウンロードはこちら)。

4月28日は「主権回復の日」か?
那覇教区で広報を担当する浜﨑眞実(まさみ)神父(横浜教区)は、この憲法記念日を含む4月28日から5月15日は、日本人が現行憲法について知るために大切な時期だと話す。
4月28日は、太平洋戦争で敗れた日本が連合国と結んだサンフランシスコ平和条約が発効し(52年)、主権を回復した日。だが条約に基づいて沖縄を日本から切り離した日でもあり、以後27年間、米軍による統治が続いた沖縄では「屈辱の日」と呼ばれている。
2016年の4月28日、沖縄県うるま市の女性がウォーキング中に元海兵隊員の米軍属の男から暴行・殺害される事件が起きた。沖縄では1995年9月に米兵3人による少女の暴行事件が起き、翌10月、8万5千人規模の抗議集会が開かれた。
この抗議集会を機に、日米地位協定の改訂や、沖縄の米軍基地負担の軽減を求める声が高まった。しかし以後も沖縄では米軍機の墜落、有害物質の流出などの事故や、米兵・軍属による県民への性犯罪などの人権侵害が続いている。
うるま市の女性殺害事件から10年となった4月28日、今年も沖縄本島中部の恩納(おんな)村にある遺体の遺棄現場には多くの人が訪れ、祈りをささげた。
毎年この現場に献花台を用意してきた吉田勝廣さん(元同県金武〈きん〉町町長)は、次のように話す。
「事件直後、現場近くで花を手向けたら私に続いて多くの人がここに足を運ぶようになり、毎年この時期に献花台を用意するようになりました。花は『(犠牲になった)あなたを忘れない』という皆さんの心です。その心を少しでも長く大切にしたくて、自宅から花瓶を持ってきて生けるようにしています」
沖縄戦の戦跡などを巡るツアーで案内役を務めてきた山田圭吾さん(沖縄・泡瀬教会)は、4月28日についてこう語った。
「この日、私たち沖縄は日本から切り捨てられましたが、むしろ『日本国』にとって屈辱の日ではないか、とも思います。考え方はいろいろでしょうが、日本が自国の領土を奪われた日ですから。日本が本当に〝主権を回復した日〟として喜べる日なのかどうかと、(疑問に)思います」

数メートル先で女性の遺体が発見された当時、
一面に下草が生い茂っていたと吉田さんは言う
5月15日、新たな復帰運動が始まった
本土では日本国憲法の施行後、1950年代から70年代にかけて米軍基地への反対運動が盛んになり、基地の整理縮小が進んだ。
本土を出た米軍基地が移った先は、米軍統治下の沖縄だった。日本の国土の約0・6%しかない沖縄に国内の米軍専用施設の約70%が集中。沖縄は今も、過重な基地負担を強いられている。日本は沖縄を犠牲にして、「戦争の放棄 戦力の不保持 交戦権の否認」をうたった憲法9条を守り続けていると言える。
また憲法9条のある日本は戦争で人を殺し、殺されることから免れてきたと言われるが、事実ではない。米軍は沖縄の基地からベトナム戦争など複数の戦争に参戦し、戦地で軍人・市民を殺害しているからだ。沖縄で米軍基地の建設に反対してきた女性は、「沖縄をこれ以上、人殺しの拠点にしてほしくない」と話す。
沖縄で日本国憲法が適用されるようになった72年5月15日、当時の平良良松那覇市長は、沖縄県憲法普及協議会が発行したポケット版『憲法手帳』(三省堂)の序文で、早くもこう指摘している。
「日本国憲法の前文をじっくり読み、それによって呼びおこされた感銘を、現実の日本の政治状況に照らしてみるとき、私たちは、そこに憲法の命がほとんど無力化されてしまっているように思えてならない。戦争を否定し、国民に最低限度の文化生活を保障しているはずの憲法が、すでに戦争をめざし、自然破壊と対外侵略を志向する、支配思想に利用されようとしている」と。
この憲法の「形がい化の実態」を直接見せつけられたのが沖縄県民だとも述べる。「平和憲法体制への復帰」を求めた県民に、本土政府が復帰対策として真っ先に提示したのが、「反憲法体制の象徴ともいうべき、自衛隊配備」だった。これに対し、沖縄は「憲法の命をよみがえらせ」、その命を「本土へさしむけ」なければならないと呼びかける。
5月15日はその「第一歩」を刻む日であり、自身はこの日から市民と共に憲法を守り、実践するための「新たな『復帰運動』」を開始すると、序言を結んでいる。

『沖縄でまなぶ わたしの憲法
手帳』(第六版)として刊行中
碑が伝える憲法9条
現在、戦争の放棄をうたう憲法9条の碑が自治体や市民によって国内各地に建てられているが、最初に設置されたのは沖縄だ。太平洋戦争の終結から40年、復帰後13回目を迎えた1985年の憲法記念日(5月3日)に、那覇市が「恒久平和」の4文字とともに9条の条文を石に刻み、市内の与儀公園に建立した。
那覇市役総務部平和交流・男女参画課主幹の野辺(のべ)達也さんは設置時の様子は詳しく知らなかったと言うが、市議会の議事録を見ると、9条の碑の設置以降も碑に言及し、平和憲法について議論を重ねていたことが分かると語る。

久平和」の4文字に続いて、9条の条文が刻まれている
『非戦の誓い 「憲法9条の碑」を歩く』(あけび書房)の編著者、伊藤千尋さん(ジャーナリスト)によれば、碑は自治体や市民によって年に1~2基のペースで建立されてきたという。
しかも世界各地で続く戦闘や圧政を背景に、碑を建てる運動は近年急速に広がっている。24年は15基、25年は25基を設置。5月15日現在、国内の碑の数は83基となった。
沖縄県は長野県と並び全国最多の8基を置くが、その半数は、自治体が役場の敷地内や市有地に建てたものだ。
沖縄本島南部の西原町役場にも碑がある。役場で平和事業を担当する与那覇道(わたる)さんは、次のように話した。
「西原町は沖縄戦で住民の46.7%が犠牲になり、平和を求める思いが強かったと思います。9条の碑の設置はその姿勢の現れでしょう。しかし今、町の人が碑をどれだけ認識しているか…。現時点では、平和学習などで活用している事例も把握はしていません」

は2002年、「祖国復帰三十周年
平和憲法記念碑」として建てられた
本島中部、読谷(よみたん)村の役場には、戦後50年の事業として1995年に9条の碑が建てられた。
読谷は、沖縄戦で米軍が沖縄本島に最初に上陸した地で、激戦地の一つ。
同村企画調整課主査の當山翔太さんは、当時の事業報告書を基に、高さ4メートル、「萌芽」と命名された碑に、次のような思いが込められていることを教えてくれた(以下、報告書より抜粋)。
人間の欲望から発する戦争に対し、我々の中には生来の生きることへの願望がある。全ての生命が当り前にその一生を終えることができる社会、平和なうちに生命を次へとつなぐことのできる社会こそ私たちの願い。その社会の実現を信じよう。我々自身の力を信じよう。世界中が九条の精神で満ちることを信じよう。それは、誰にも阻止できない植物の萌芽と同じ、生命の躍動につながるのだから。
輝け!平和憲法。
いけ!世界へ。平和な未来に向けて!

名嘉睦稔(なか・ぼくねん)氏作。背後の
木は、沖縄で暴風や津波などから家屋を守
るために植えられてきた常緑樹のフクギ
