受難の主日〈枝の主日〉 3月29日 マタイ 27・11ー54または 26・14~27・66 罪人を救うキリストに叫ぶ

 教会は受難の主日に、主のエルサレム入城を記念します。軍馬ではなく、ロバに乗った柔和な王が、重荷を負う人々に平和を告げるため、都に来られました。マタイ福音書が引用しているゼカリヤ書9章の預言が、正にこの時キリストにおいて成就したことを、入城の福音は高らかに告げ知らせます。
 しかし、この日の典礼は、「ホサナ」という歓呼の声が、程なく「十字架につけろ」という罵声に変わったことをも明らかにするので、それを聞いて心が二つに引き裂かれるような思いをする方も多いでしょう。

 当時の人々が、どれほどメシアの到来を待ち望んでいたかは、彼らがイエスを都に迎え入れた時の熱烈な様子からうかがえます。ミサの中で感謝の賛歌を歌う私たちも、彼らと同じ「ホサナ」という言葉で、主を私たちの元に迎え入れます。ですから私たちは、ミサのたびに、また特にこの受難の主日に、エルサレムの人々と声を合わせて主キリストを賛美するのです。

 では、そんな彼らが、態度を一変させてイエスに向かって「十字架につけろ」と叫んだのなら、私たちもイエスに罵声を浴びせているのでしょうか。罪を犯し神に逆らうとき、確かに私たちは、そうしていると言わざるを得ません。罪人である私たちは、救い主の訪れを待ち望みながら、その方に逆らって生きるという二面性を抱えているのです。

 こうした自分たちの矛盾を目の当たりにすると、私たちは打ちのめされそうになり、「ホサナ」という歌声からも力が失われかねません。しかし、元々この言葉は、「どうか救ってください」という意味だったのが、次第に歓呼の言葉として使われるようになったのだそうです。ですから、救いと罪に引き裂かれた二心を抱く私たちだからこそ、あえて「ホサナ」と叫ぶべきでしょう。

 人は罪に汚れた自分の姿から目を背けているうちは、救いの必要性をあまり実感できません。しかし、それを直視すればするほど、「ホサナ・どうか救ってください」という叫びは、いよいよ切実になります。人々を罪から救うために十字架に上られた主は、そのように叫ぶ私たちのうちに、ご自身への信頼を育み、二つに裂かれた心を癒やしてくださり、その業を体験する私たちの魂の奥底からは、賛美と感謝が湧き上がるでしょう。主の十字架により救いにあずかったことを知った罪人の魂は、全身全霊で「ホサナ・主の名によって来られる方に、祝福があるように」と、歓呼の叫びを上げずにはいられなくなるのです。
    (熊坂直樹神父/東京教区 カットは高崎紀子)

  • URLをコピーしました!
目次