復活節第4主日 5月11日(世界召命祈願の日) ヨハネ 10・27ー30  羊飼いと羊

 私たちは洗礼を受ける瞬間から「キリスト者」や「神の民」または「神の子ども」、あるいは「神の羊の群れ」などと呼ばれます。それは私たちが洗礼を受けて身分が変わることを意味します。要するに、洗礼によって私たちは神に属する者となる、神と直接的な関係がある者となるということを意味するのです。そういう意味で、ヨハネは私たちを当時一般に飼われていた動物である「羊」に例えます。
 今日、イエス様はこう言われます。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」。もちろん、羊が自分の飼い主の声を聞き分けるのは当たり前だと思われるかもしれませんが、この言葉には重要な意味が三つ隠されています。
 まず第1に、羊飼いと羊の関係です。羊飼いは自分の羊の群れを危険から守り、そのために安全な道を探して導きます。そして自分の羊の群れが飢えることのないように食べさせ、また飲ませます。羊は自分の羊飼いの声を覚え、それに従います。そうするのは自分の命を保つためです。すなわち、羊飼いと羊の関係は命の関係、つまり、羊飼いは羊を生かし、羊は羊飼いによって生かされるということです。神と私たちとの関係が羊飼いと羊の関係に例えられているのです。
 第2に、「声を聞き分ける」ということです。声を聞き分けるためにはその声を聞き慣れていなければなりません。その声を毎日聞いてきたという前提があるのです。確かに、羊の群れは朝から晩まで羊飼いと一緒に行動します。最初は羊飼いの声に従わず別の行動をするかもしれませんが、毎日羊飼いの声を聞き、羊飼いの導きに従うなら生きることができ、十分に草を食べることができると気付いてからは羊飼いの声に敏感に反応することになります。それは、毎日羊飼いの声を聞き、羊飼いと一緒に行動した結果なのです。私たちが神の羊の群れなら、このようにしなければならないということを意味するのです。
 第3には、誰が羊飼いに属している羊なのかということです。その羊の群れの中には最初から一緒だった羊もいれば、後で加わった羊もいるでしょう。あるいは途中でいなくなる羊もいるはずです。今日の福音の前の箇所で、イエス様はこう言われます。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける」(ヨハネ10・16)。私たちが洗礼によって羊の群れに加わったとすれば、まだ洗礼を受けていない者がどうしてイエス様の声を聞き分けることがあり得るのでしょうか。実は人間は創造された時から神の霊を受けていますし、神の声を聞く場所として「良心」を持っています。従って、良心的に人間として守るべきことを守り、皆のための善を追い求める人は、まだ洗礼を受けていないとしてもイエス様の声を聞き分けるということです。
 羊は羊飼いから離れたら絶対に生きることができません。毎日一緒に行動し、その声に従っていかなければ死んでしまうのです。だから、私たちも命を得るために、私たちにとっての羊飼いであるイエス様に従うよう、今日イエス様自身がお教えになるのです。その導きに応えることこそが私たちの召命であり、信仰なのです。

(ダニエル・キム・ドンウク〈金桐旭〉神父/韓国殉教福者聖職修道会 カット=高崎紀子)

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