復活節第5主日 5月3日 ヨハネ 14・1ー12 動揺を通って信仰へ

 

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復活節第5主日 5月3日 ヨハネ 14・1ー12 動揺を通って信仰へ

 今週朗読される福音は告別説教の一節である。ヨハネだけが伝えるこの比較的長い説教は、最後の晩餐(ばんさん)の席でイエスが弟子たちに語った、いわば遺言のような言葉である(14~17章)。別れの日が近いことを悟り始めた弟子たちに、イエスはまず次のように言う。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。ここで「騒がせるな」と訳されているのは、ギリシャ語の「タラッソー」という動詞である。原意は「水などをかき回す」動作のことだとされている。これが人間の内面について用いられると、「平静を失わせる」、「狼狽(ろうばい)する」といった意味になる。

 興味深いのは、この動詞がヨハネ福音書ではイエスの心情を言い表すときにも用いられていることである。ヨハネは、イエスご自身が心を乱された方であったことを3度、しかもいずれも告別説教に先立つ箇所で、タラッソーを用いて描写している。1度目はラザロの死に直面した時、2度目は受難を前にした時、そして3度目はユダの裏切りを予告した時である。師は弟子に裏切られてなお平然としていたのではない。深く動揺し、狼狽したのである。「イエスは、心を騒がせ(=タラッソー)、断言された。『あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている』」(ヨハネ13・21参照)。告別説教においてイエスは、動揺を知らない方としてではなく、動揺を身をもって経験し、それを通られた方として弟子たちに語っているのである。

 ところで、心を騒がせなくてもよい理由として、イエスはご自分が「戻って来る」ことを根拠に挙げる。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」。この一文には、ギリシャ語時制の交差が見られる。「行く」「戻って来る」は現在形、「迎える」は未来形という具合に。こうした表現を、異なる伝承や終末論的視点の重なりとして説明する研究者もいる。他方、クレイグ・S・キーナー(1960~)は、これを福音記者の意図的な統合表現として捉える。つまり、告別説教は歴史的には「引き渡される夜」に語られた言葉であるが、福音書そのものは、イエスの死と復活、さらに聖霊降臨を知った教会の中で書かれている。従ってここでは、去って行くイエスと、なお弟子たちと共にいるイエスとが重ねて語られているのである(=現在形)。ただし、その交わりの完成は、なお将来に向かって開かれている(=未来形)。
 キーナーは、信じる者にとって現在と未来は重なり合って存在していると言う。イエスと共にあることは、いつの日か与えられる約束であるだけでなく、もう始まっている現実でもあるのだ。心が騒ぐときこそ、この真実を思い起こしたい。
(熊川幸徳〈くまがわ・ゆきのり〉神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子)

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