関東大震災後の朝鮮人虐殺検証へ 初の日韓議員懇談会 在日2世 金性済(キム・ソンジェ)牧師に聞く①

目次

関東大震災後の朝鮮人虐殺検証へ 初の日韓議員懇談会 在日2世 金性済(キム・ソンジェ)牧師に聞く①

 関東大震災後に発生した朝鮮人虐殺を検証していくための初の日韓議員懇談会が、8月31日、東京・千代田区の参議院議員会館で開催された。日本政府が「虐殺の事実を証明する資料がない」として虐殺の真相究明を拒み続ける中、韓国で昨年末、真相究明と名誉回復のための「特別法」が成立したことを契機に実現した懇談会。韓国議員と日本の有志議員が事件に関する認識を共有し、今後の連携を確認した。
 懇談会の開催を発案したのは、在日韓国人2世で、「日韓和解と平和プラットフォーム」書記の金性済(キム・ソンジェ)牧師(73/在日大韓基督教会引退牧師、日本キリスト教協議会元総幹事)。日本と朝鮮半島の歴史の“はざま”に生まれ、その苦悩の中、「十字架と復活の福音に救われた」という金牧師に、この懇談会の歴史的な意義について聞いた。2回に分けて紹介する。

 神が用いてくださった「在日の私」

 真相究明に向けて日韓議員が協力

 議員懇談会開催の背景には、この1年余りの間に起きた日韓両国での画期的な動きがある。
 まず韓国の国会で、虐殺の真相究明と犠牲者の名誉回復のための特別法の法案がすでに上程されていた2025年2月、日本で「関東大震災 朝鮮人虐殺を検証する有志議員の会」(以下・有志議員の会)が発足。さらに韓国で同年12月、前掲の特別法「関東大震災朝鮮人虐殺事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」(以下・特別法)が成立した。
 今回の日韓議員懇談会では、特別法の立法化に取り組んできた韓国の議員団と、日本の有志議員が関東大震災後の朝鮮人虐殺事件についての認識を共有した。日本と韓国でそれぞれ資料の収集、保存および調査研究を進めるとともに、保有する情報を共有し、犠牲者の実態解明、名簿の整備および名誉回復に向けて協力していくことを確認した。

日韓議員懇談会に参加した韓国の議員(左側の
3人)と日本の有志議員(右側の3人)たち

 1923年9月1日の関東大震災発生後、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「放火した」などの流言蜚(ひ)語と偏見によって朝鮮人が虐殺された。凶行に及んだのは、戒厳令によって出動した軍や警察のほか、一般市民だ。鳶口(とびぐち)、鉄砲、刀、おの、鎌、竹やりなどで、多くの朝鮮人を惨殺した。
 大韓民国臨時政府(当時)の機関紙『独立新聞』(1923年12月5日)の集計によれば、犠牲者数は6661人。殺されたのは犯罪者などではなく、罪のない、善良な人々だった。しかし日本政府はこの虐殺について、「政府内にその事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」との答弁を繰り返し、真相究明のための調査は手つかずのままだ。
 金牧師は後日インタビューで、自身が司会も務めた懇談会をこう振り返った。
 「日本の参政権もない在日韓国人の私が、日本と韓国の議員の間に立っていた。神がいま本当に必要だと思われるところで、この私を用いられた……その喜びを覚えて、あの日は奉仕していたのです」
 在日として神に用いられる喜びとは、一体どのような喜びだったのだろうか。

 70年代―在日に“新たな流れ”

金性済(キム・ソンジェ)牧師

 金牧師は1952年10月31日、在日韓国人1世の父親と、在日韓国人2世の母親の間に、大阪で生まれた。父親を5歳で亡くしたため、「家庭環境は完全に日本語の世界」だった。
 民団(在日大韓民国民団)が設立した民族学校(韓国学校)に通ったことはなく、「日本の学校しか知らずに」育つ。在日韓国人としてのアイデンティティーの問題に目覚めたのは71年、大学1年生の時だ。前年の70年12月、愛知県出身の在日韓国人2世パク・チョンソク(朴鐘碩)さんの就職差別裁判がきっかけだった。
 在日韓国人は当時、本名や国籍を明かすと就職が極めて困難だった。パクさんは通名(日本名)を使うなどして日立製作所ソフトウェア戸塚工場(横浜市)の採用試験で合格(内定)したが、入社直前、韓国人であることを理由に採用を取り消されてしまう。
 パクさんは同年末に「国籍を理由とした差別」だとして提訴し、3年半の闘いの末に勝訴した。同社への入社実現にまでつながったこの裁判は、在日の人々や、のちの国籍・民族差別撤廃運動に大きな影響を与えた歴史的訴訟として知られている。
 当時、大学生だった金青年は、「“洗礼”を受けるかのようにこの裁判に影響を受け」、学生運動などの活動にのめり込んだ。
 「その頃までの朝鮮半島生まれの在日韓国人1世は、韓国や朝鮮半島との関連で自身のアイデンティティーについて考え、人権運動をしていました。しかしパクさんの裁判以降、自分が直面した民族差別と闘うことによって、自分が何者であるのかを見直し、捉え直し、自身を取り戻す運動へと変化していきました」
 そうした“新しい流れ”が続いたのが、1970年代。金青年も「自分に目覚め」、通名ではなく本名の「金性済」として生き始めたが、「韓国語を話せず、問題意識ばかりが先に目覚めていく」状態だった。
77年に東京の大学を卒業後、在日韓国教会の牧師になることを決意し、同志社大学神学部へ。82年に同大学大学院を卒業すると1年間、韓国へ留学した。

 80年代―在日1世との相克

 金牧師によれば、70年代までは「在日朝鮮人」「在日韓国人」「在日韓国・朝鮮人」などの言葉を使われていたが、韓国留学前の80年に始まった指紋押捺拒否運動以降、「在日コリアン」という表現を見聞きする機会が増えたという。
 この拒否運動は1980年9月、東京在住の韓国人ハン・ジョンソク(韓宗碩)さんが、外国人登録法に基づく指紋押捺(おうなつ)を拒否した行動から始まり、全国に広がった。「日本に住み、税金も納める、『定住外国人である在日コリアン』に対し、制度を通して差別することは許されない」という主張だった。
 運動の中でしばしば用いられた「定住外国人」という言葉は、70年代まで、在日の間では「使うことのはばかられる言葉」だった。
 在日1世は、さまざまな理由で朝鮮半島から来日した。日本の植民地支配によって困窮し、家族を養うために故郷から出稼ぎに来た人もいれば、太平洋戦争中、労働力として強制的に連れて来られた人もいる。
 そうして愛する祖国を離れざるを得なかった1世にとって、「定住外国人」になるということは極めて重い意味を持つ。将来、韓国の民主化や、南北統一が実現した際に、外国人として日本で生きていくのか、朝鮮半島に戻るのか。自分は何者として生きていくのかという重要な選択に直結するためだ。
 「70年代まで、在日の間では朝鮮半島を自身のよりどころとする1世・2世の強烈な意識が支配的だったものですから、日本に永久に暮らすことを志向するような『定住外国人』という言葉を使うと、『お前はなんだ、もう同化志向か』などと主流派から非難されてしまう時代でした。しかし一人の韓国人によって指紋押捺拒否運動が始まった頃から、日本人と同様、国や自治体に納税して生活している外国人は皆、定住しているにもかかわらず、なぜ外国人にだけ指紋押捺が義務付けられるのかという抗議が一気に広がり、90年代初めまで続いていくのです」

 韓国で受けた屈辱
金牧師

 そうした時代の変化を感じながら、金青年は1982年4月、学生結婚をした妻と幼い子どもを残して単身、韓国に語学留学した。日本での在日への差別に苦悩していた金青年は、韓国に心のよりどころを見いだそうとしていたが、当時は民主化前。全斗煥(チョン・ドゥファン/在任1980~88年)による独裁政権下だった。
 拙い韓国語で買い物に挑戦していた時だ。「何者かが私をスパイではないかと申告したので、突然警察に捕まり、派出所で荷物を全て調べ上げられました。『入国はいつか』『何が目的か』などと尋問され、もう怖くて、怖くて。やがて解放されましたが、腹が立っても、どう表現していいか分かりませんでした」
“外国人”として受けた屈辱は、そればかりではない。
 韓国語にもだいぶ慣れた留学8カ月目の頃のこと。教会の青年仲間と地下鉄車内で歓談していると、後方にいた初老の男性から突然、「この日本人めが! 韓国まで来てへたくそな韓国語を使いやがって、とっとと日本に帰ればいいのに!」と怒鳴られた。
 金青年は「日本人と間違えられた」ことにも、自身のルーツである韓国で、存在を拒否されたことにもショックを受けた。悔しさをこらえきれず、その男性に伝えた。自分は在日韓国人2世で、29歳まで知らなかった韓国語を猛勉強し、ここまで話せるようになったのだと。在日の心の叫びとして、こうも訴えた。
 「あなたと同世代の在日韓国人のおじいさん、おばあさんたちは、日本のバスや電車の中で(侮辱され)、どんなに辛い思いをしても沈黙し、耐えながら生きている。そういう同胞が日本にいることを忘れるな!」
 その男性は黙り込み、うつむいいたままだったという。

 在日は“谷間”を生きる存在か?

「在日の存在理由」を自問する日が幾日も続いた。多くの在日同胞の苦しみや死に触れ、牧師を志した自分だったが、神学で学んできた「キリストの十字架と復活の福音」も、一体何なのかが分からなくなった。しかし留学を終える直前のことだ。苦しみ、祈る中で、やはり福音によって、再び立ち上がったのだという。
 「私は在日としてのアイデンティティーを守り、組織としての在日韓国教会を守ることを必死で考えていました。しかし『十字架と復活の福音』とは、“守りの道”ではないのだと、雷に打たれるかのような衝撃をもって気付いたのです」
福音とは、人間の守りを実現するための道具や手段ではなく、神ご自身の目的が果たされるための道。
 「あの教授がおっしゃるように、われわれ在日は消えてなくなるのかもしれません。しかしもし、神がこの在日という存在を必要とし、用いるというお考えならば、消えたと思っていたところから、我々はまたいつでも新しく呼び集められる。神のご計画への希望に目覚めさせるものこそが、福音の力なのだと」
 その気付きは自身にとって、“守りの道”を生きる虚しさに目覚め、砕かれる十字架の体験だった。ただひたすら神のご計画への希望のうちに、「今日、自分が伝えるべき福音」を語ればいいのだと確信した、復活の体験でもあったと、金牧師は言う。
 以来40年余り、この福音を日々、信じて歩んできた。
 「あの日韓議員懇談会で、私は在日として、日本と韓国の議員をつないでいく奉仕をさせていただいたと思います。日本にも韓国にも居場所を見つけられず、“谷間”に陥った在日の私を神は見いだし、歴史の真相究明の課題のために必要な者として、用いてくださいました」
 懇談会の構想も、2025年の夏頃から祈り、考えをめぐらす中、浮かび上がってきたものだったという。  (続く)

日韓議員懇談会の直後にも「在日の私を、
神が用いてくださった」と喜びを語った金牧師
(8月31日、参議院議員会館前で)

  • URLをコピーしました!
目次