京都府亀岡市在住の黒田雅夫さん(88)はアジア太平洋戦争(1931~45年)末期から敗戦後にかけての約2年、満州で幼少期を過ごした。満州で母親と祖父を失い、父親と弟とは生き別れになり、現地でたった一人残された黒田さんは8歳で路上生活者となった。その記憶が魂の深い傷となり今も苦しみ続けているが、その痛みをエネルギーに変え、子どもたちに戦争の悲惨さ、命の大切さを伝える「語り部」となった。息子の毅(つよし)さんと共に学校で戦争体験を語り続けて17年になる黒田さんに話を聞いた。
黒田さんは「語り部」活動をして17年になるが、今年度に入っても学校や市民集会などからの講演依頼は後を絶たず、88歳になっても精力的に戦争体験を語り続けている。
2年前の8月15日、黒田さんは満州での体験をまとめた絵本『今を生きる 満州からの引き揚げの記録』(英訳付/講演DVD付)を出版した。満洲での記憶をたどって描いた約60枚の色えんぴつ画と体験談が収められている約100ページの大作だ。黒田さんは絵を見た人々からよくこういう質問を受ける。
「当時7~8歳だったのに、なぜ半世紀以上前の体験を詳細に覚えているのですか?」
公立中学校教諭で人権教育を担当する息子の毅さんが代弁する。
「親に守られていた子どもたちは、満洲での出来事をあまり覚えていないと言います。しかし父の場合は誘拐や人身売買の危険がある中で、たった一人で逃げ続けていたので、一つ一つの場面が脳裏に焼き付いてしまったようなのです。大人になっても、当時のことが夢に出てきて、夜うなされてしまうことがあり、今でも睡眠剤を飲まないと寝ることができないのです」
戦争によるPTSD(心的外傷後ストレス障害)と呼ばれているものなのだろう。その体験の一端を黒田さんは次のように語ってくれた。
京都開拓団を結成し満州へ
黒田さんが幼少期を過ごした満洲とは、アジア太平洋戦争のさなかに、大日本帝国が中国東北部を占領して建てた国だ。黒田さん家族が満州に渡った1944年は、日本政府が日本人を「満州開拓移民」として満州国へ移住させる政策を推進していた時期で、日本政府は「移民」を募るためにこう大々的な〝触れ込み〟をした。
――空襲のない土地で自作農ができる。兵役も免除される。ソビエト(当時)も参戦しない――。
2度の兵役を終えた黒田さんの父親は「もう戦争はごめんだ」と、兵役のない満州国への移住を決意した。同年6月に京都市では織物業に携わる人を中心に「満州廟嶺(びょうれい)京都開拓団」が結成され、黒田さん一家も希望に胸を膨らませて「開拓団」に加わった。
ところが満洲に到着し農業で生計を立てようと思っていた矢先、父親に召集令状が届く。「兵役は免除される」という〝触れ込み〟だったのだが、父親は雨の降る夜、軍服姿で家を後にした。これが父親と母親にとって互いの姿を見る最後の別れとなったのだ。
そしてその2カ月後に日本は敗戦。そこからが黒田少年と母親、祖父、弟の命懸けの逃避行が始まった。1年2カ月暮らした村を離れ、月明りに照らされた一本道を、母親は弟を背負い、祖父は黒田少年の手を引いて歩き始めた。現地ではこれまで抑圧されていた満州の人々の不満が一気に爆発。またソビエト軍が参戦し、満州国に侵攻してくるのも時間の問題となった。「廟嶺京都開拓団」と「高知県四万十(しまんと)開拓団」が合流し約500人が吉林(きつりん/チーリン)を目指した。女性はソビエト兵からのレイプを恐れ、髪を丸刈りにし、顔に消し炭を塗り、男性のふりをして避難した。約1カ月、着の身着のまま、人目の多い昼間は野宿をし、人目の少ない夜はコウリャン畑を空腹状態でひたすら歩き続けた。
9月、やっと吉林を経て撫順(ぶじゅん/フーシュン)の収容所(引き揚げ者を一時的に住まわせた場所)にたどり着くが、母親と祖父は寝たきりの状態に。黒田さんは二人の看病をし、弟の面倒を見ながら、鉄かぶと(兵士が被る鉄製ヘルメット)を鍋代わりにして配給のコウリャンを炊いた。しかし冬になるにつれ、伝染病の発疹チフスが流行し、どんどん人が亡くなった。生き残った人たちは、遺体から衣服をはぎ取って暖を取った。土が凍り埋葬もできず、収容所裏の広場は遺体の山に。逃避行の途中で、また収容所で二つの開拓団の合計399人が死亡した。
祖父も母親も遺体置き場に放置
そうした過酷な状況下、祖父は「日本に連れて帰れなくてすまないな」とわびて68歳の生涯を終える。祖父は裸にされて広場の死体置き場に捨てられた。そして母親は自身の死期を悟ったのか、弟を子どものいない満州の人に預けた。弟はいわゆる「中国在留邦人」となる。
それから数日後、寝たきりの母親が突然、「今日は私がご飯を炊く」と言って、どこからか手に入れた材料で「かやくご飯」(炊き込みご飯)を作ってくれた。母親はそのご飯にいっさい手をつけず、「もっと、もっと食べなさい!」と黒田さんがおなかいっぱいになるまで食べさせた。全部食べ切れずにいると、母親は夜中に黒田さんを揺り起こして「全部食べなさい!」と叱った。母親の言う通りにして再び眠りにつくが、朝、目覚めると、母親は冷たくなって亡くなっていた。32歳だった。
悲しむ時間もなく、母親の衣服は誰かにはぎ取られてしまった。あばら骨が浮き出たやせ細った母親を、開拓団の団長と一緒に死体置き場に運んだ黒田少年。「まるで物を捨てるように母親の死体を放り投げたあの悲しみと辛さは一生消えないトラウマとなり、苦しむことになりました」と黒田さんは話す。
戦後、親を亡くした子どもを売買する業者が多かったため、一人ぼっちになった8歳の黒田少年は毎日寝る場所を変えながら路上生活を続けた。落ちている物、捨てられている物を食べて、命をつなぐ日々だった。
後に中国人の修道女に保護され、カトリックの洗礼を受け「バイドゥル」という洗礼名をもらう。そして日本に帰国後はメリノール宣教会の児童養護施設に一時保護され、その後、亀岡市に住む祖母に引き取られた。
そんな黒田さんにとって忘れられない思い出があるという。満州で路上生活をしてお腹をすかせていた時、露店でまんじゅうを売っている中国人の高齢男性が大きな声で話しかけてくれたことだ。
満州に来たばかりの時、近所に住む少年、徳清(トクショウ)君とよく遊んでいたため、露店の高齢男性が話す中国語が黒田少年には理解できた。
「その老人が『日本の子どもよ、来なさい』と言っているのが分かりました。私が恐る恐る近づくと、『ありがとうはいらないよ』と言って、まんじゅうを地面にぽんと投げてくれました。その老人は私が遠慮しないように、わざとまんじゅうを捨てたふりをして、捨てた物なのだから遠慮しないで食べなさいと声をかけてくれたのです。私はすぐにまんじゅうを拾い、夢中で食べました。本当においしいまんじゅうでした。その老人の優しさと、徳清君が教えてくれた中国語の言葉が私の命を救ったのです」

黒田さんがこうした経験を学校で話すと、児童・生徒たちは「家族をもっと大切にします」と言ってくれる。大学生は「戦争をしないために自分に何ができるのか」を考え始めるという。そうした出会いの喜びが、黒田さんの心と魂にたまった悲しみを少しずつ癒やしてくれているのを感じると、黒田さんは話す。
「今も遺体置き場の場所を覚えています」と言う黒田さんにとって、戦後80年にかなえたいことがある。それは満州に放置された母親や祖父、そして開拓民の遺骨をどうにか日本に持ち帰ること、そして現地に追悼碑を建てることだ。そのためには政府を動かすほどの国民の応援と後押しは欠かせない。後に黒田さんは「中国残留邦人」となった弟と父親との再会を果たすが、弟は今も「中国で棄(す)てられた」という思いを抱いている。黒田さんと弟の孝義さんにとっても、80年前の戦争はまだ終わっていない。
絵本『今を生きる 満州からの引き揚げの記録』に関する問い合わせは、電子メールkuropapa1@yahoo.co.jp(黒田毅さん)まで。
