四旬節第2主日 3月1日 マタイ 17・1ー9 イエスだけを見て、イエスに聞く

 今週の福音は「六日の後」という言葉で始まる(ただし、『朗読聖書の緒言』に従い冒頭句が省かれ、代わりに「そのとき」が補われている)。これは、記述内容が大きく変わっても、6日前に起こった出来事とのつながりが保持されているという示唆であろう。6日前にあったのはイエスの死と復活の予告であり、さらに言えば、その際「主よ、とんでもないことです」と言ったために叱責を受けることになったペトロの失態である。

 その「六日の後」、イエスはペトロをはじめ3人の弟子だけを連れて山に登る。山頂でイエスの姿は輝き、モーセとエリヤという旧約を代表する2人の人物と語り合う。こうした栄光の姿は、前段で語られた受難、死、復活に関する予告の、ある意味では補完的役割を担っていると考えることもできる。つまり、前段から始まった予告はここに来てようやく完了するという解釈である。光り輝く主の姿は明らかに復活を先取りした世界の描写であろう。ただし、6日前の出来事に再度立ち返るならば、ここへ至るまでには受難と死を経ることが不可欠とされており、「変容」の本質は実際には一人一人が自分の十字架を取って主に従うようにとの招きを受け入れたときに初めて理解されるものと思われる。

 ところで、福音の後半部分には次のような一文がある。「彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」。ギリシャ語の原文ではここにホラオー(=見る)という動詞が使われている。新共同訳聖書も「顔を上げて見ると」という表現でホラオー(=見る)を考慮した訳にしている。実はこの先を書くのはかなり勇気のいることなのだが、専門家にお叱りを受けるであろうことを百も承知で、個人的な黙想のためにあえて次のような訳でここを読んでみたい気持ちがある(当然、誤訳であることは前提の上だが)。「彼らは目を上げると、イエスだけを見た(直訳は、イエスだけしか見なかった)」。私がこの一文に注目するのは、ここにはキリスト者の霊性にとって大切なことが書かれていると思うからである。起き上がった弟子たちの前にはさまざまなものがあったに違いない。もしかしたら、モーセとエリヤもまだそこにいたのかもしれない。しかし、それでも弟子たちはイエスだけを見たのである。

 ここでの見る意味をさらに鋭く浮かび上がらせるのは、恐らくこれを前節との関連で理解するときであろう。前節には次の言葉があった。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適(かな)う者。これに聞け」。雲の中から語る声を弟子たちは聞いたのである、これに聞けと。イエスだけを見て、イエスに聞く。これこそがキリスト教的霊性の本流であろう。われわれは今、情報過多と言われる時代を生きている。「雲の中」とは、何が真実であるのか厚い雨雲に覆われて見えなくなっている時代の暗喩のように思えてならない。暗中模索を続けながら懸命にこの時代を生き抜こうとするわれわれに向かって、今も雲の中から声が響くのである。これだけを見、これに聞けと。 
    (熊川幸徳〈くまかわ・ゆきのり〉神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子)

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