【バチカン6月11日CNS】誰かが神に向かって癒やしや助けを求めて叫び声を上げれば、神は必ず耳を傾けてくださる、と教皇レオ14世は強調する。
「神が聞かれない叫び声はありません。たとえ私たちが神に向かって叫んでいると知らなくても(出エジプト記2・23参照)」と教皇は6月11日、厳しい日差しの下、バチカンのサンピエトロ広場で開いた一般謁見で語った。
教皇はイエスの生涯と公生活がもたらす希望についての講話を続けていて、今回は「マルコによる福音書」のイエスが目の不自由なバルティマイを癒やす物語(10・46~52)について話した。
教皇レオ14世は講話の冒頭で、6月は「イエスのみ心」の月であることに触れた。「ですから、私は皆さんに勧めます。キリストのみ心の前に、皆さんの最も苦しいこと、または弱いところ、人生の中で行き詰まり、動けなくなっていると感じていることを差し出してください。信頼をもって主に向かい、私たちの叫びを聞いて、癒やしてくださるよう願いましょう」
マルコ福音書の中のバルティマイによる「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんでください」(47節)という叫びは信仰のわざだ、と教皇は指摘する。周囲の人々が黙らせようとしても、バルティマイはますます叫び続ける。
「彼は物乞いだったので懇願の仕方を知っています。それどころか叫び方も心得ていました」と教皇は説明する。「人は本当に何かが欲しければ、それを得るためなら何でもします。たとえ他人から非難されたり、辱められたり、諦めるように言われても」
「本当にそれを願うのなら、叫び続けるのです」と教皇は付け加えた。
弱さを全てさらけ出して願う
教皇レオ14世はさらにこう指摘する。この福音書の物語がはっきりと示しているのは、イエスはバルティマイを助け起こしに行くのではなく、自分で立ち上がるよう促していることであり、イエスは「彼が死の苦しみから立ち上がれる」ことをご存じだった。
「ただし、彼はそうするために、非常に意味深い行動に出る必要がありました。上着を投げ捨てなければならなかったのです」と教皇は説明を続ける。「物乞いの彼にとって、上着が全てでした。彼の安心の元、家であり、彼を守る防護だったのです」
今日のキリスト信者はバルティマイに学ぶことができる、と教皇は強調する。
「多くの場合、まさに私たちにとっての明らかな安全が邪魔になることがあります。自分を守ろうとして積み上げた物がかえって私たちの歩みを妨げるのです」とレオ14世は続ける。「イエスに向かって行き、自分を癒やしていただくために、バルティマイは自らの弱さを全てさらけ出して見せなければなりませんでした。これが、全ての癒やしへの道にも共通する基本的な一歩なのです」
教皇レオ14世はこう呼びかけて講話を結んだ。「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、私たちは信頼をもってイエスの前に、私たちと私たちの愛する人の病を示しましょう。道に迷ってしまい出口が見いだせないと感じている人々の苦しみを主の前に示しましょう。その人たちのためにも叫びを上げましょう。そうすれば、主が私たちの声を聞いて立ち止まってくださることを確信できるようになります」
