イエスの食卓に招かれて カラバッジョ作 『エマオの晩餐』 アンドレア・レンボ補佐司教(東京教区)に聞く

アンドレア・レンボ補佐司教
東京教区補佐司教。イタリア生まれ。真生会館(東京)やカトリック船橋学習センター・ガリラヤ(千葉)の講座で、キリスト教美術の魅力と共に福音を伝えている。

 復活祭にぴったりな作品をご紹介します。カラバッジョ(1571~1610年)は生涯で二つの『エマオの晩餐(ばんさん)』を描きましたが、今回ご紹介するのは1601年ごろに描かれ、現在はロンドンのナショナルギャラリーに所蔵されている作品です。
 イエス様が復活した日の夜、二人の弟子がエマオに向かって歩きながら、イエス様の受難の出来事について話し合っていると、復活したイエス様に再会します。しかし二人は目が遮られているので、その方がイエス様本人だとはすぐに分かりません。『エマオの晩餐』では、宿屋で二人の弟子がイエス様と共に食卓にあずかり、イエス様がパンを裂いた瞬間、弟子たちが復活したイエス・キリストだと認識する場面が描かれます。

 それでは人物を丁寧に見ていきましょう。
 私は赤と白の衣を着たイエス様の左(画面右)にいる、左胸に貝を付けているのが、弟子のクレオパだと考えています。右後ろは宿屋の主人(画面左から2人目)、斜め右前にいるのがもう一人の弟子(画面左)です。

 巡礼者としての弟子たち

 イエス様の衣の赤は「愛と犠牲」、白は「信仰と純潔」を表しています。若々しく描かれた顔は、復活を意味します。
両手の形にも注目してください。どこか見覚えがありませんか。『最後の晩餐』(レオナルド・ダビンチ作)でイエス様がパンに伸ばした右手、『アダムの創造』(ミケランジェロ作)で神がアダムに向かって伸ばす右手を連想させる手です。パンを新しい命に変える創造の手、として描かれているのです。カラバッジョは先人たちの作品を尊重し、学んでいたので、自身の作品にもその影響があると考えられています。

『アダムの創造』の一部

 目が開かれた二人の弟子は、イエス様を見て驚いています。宿屋の主人はイエス様をじっと見つめていますが、どのようなお方なのか分かっていません。でもなぜ宿屋の主人の服が、イエス様と同じ赤と白なのでしょうか。カラバッジョが伝えたかったのは、イエス様を知らない人でも、イエス様の救いにあずかることができる、イエス様の十字架によって救われるということなのです。

 クレオパの左胸に付いているのは、巡礼者を象徴するサンティアゴ・デ・コンポステラ(スペインの著名な巡礼地)の貝です。当時、巡礼は一生に一度の悔い改めの行為でした。クレオパは、巡礼者としてイエス様と出会い、共に歩き、パンが裂かれた途端、イエス様だと認識したのです。
 もう一人の弟子は、「Faldistoro(ファルデストール)」と呼ばれる椅子に座っています。この椅子は当時、教皇がローマ以外の場所で使うものでした。立ち上がろうとしている弟子の袖の右肘が破れていますね。裂けた服は教会が完璧ではないことを表しています。カラバッジョがこの弟子の姿に込めたメッセージは、教会は完璧ではないのだから、権威に座り続けるのではなく、クレオパと共に悔い改めのための巡礼に出かけるべきだ、という思いです。
 巡礼の「希望」は、クレオパの首に巻かれた布と、もう一人の弟子の服の緑色に込められています。

 イエスの食卓を囲む

 次に、食卓に描かれているものを見ていきましょう。
 二人の弟子の前には、イエス様が裂いて渡したパン、つまりイエス様ご自身が置かれています。パンが渡された瞬間に、二人は信仰の目が開き、見えるようになりました。
イエス様の右手の下に置かれたぶどう酒は、御血であり、十字架の犠牲と救い、そして聖体祭儀を連想させます。
 食卓の手前にある果物の籠をよく見てください。今にも端から落ちそうです。これは現実の不安定さや、人間の存在のもろさを暗示しています。そして、籠に光が当たって食卓に落とす影は魚の形をしています。魚はキリスト教で最も古い象徴の一つであり、ギリシャ語の「魚(ichthys/イクトゥス)」は、「Iesous Christos Theou Yios Soter」(イエスース クリストス テウー フィオス ソテール/イエス・キリスト・神の子・救い主)の頭文字を取った単語なのです。
 籠の中のブドウはぶどう酒と同じく救済を意味します。リンゴは原罪の象徴。ラテン語では「リンゴ」も「悪」も「Malus(マルス)」と書きます。「悪のリンゴ」は『創世記』の禁じられた木の実を連想させるからです。種が多いザクロは復活や永遠の命を表します。熟し過ぎた果物、傷のある果物も描かれていますが、これは限りある人間の命のはかなさを意味します。
 もう一つ食卓に載せられている焼かれた鶏(肉料理)は、日常的な、家庭的な食事であり、神が私たちの日常に現れることを意味しています。

 私たちが同じ食卓を囲み、イエス様の言葉に耳を傾け、同じパンにあずかる時にイエス様は現れます。他の人を批判したり、裁いたりしないで、私たち皆が巡礼者としてイエス様に従いましょう。
 ほら見てください。イエス様の正面が空いていますよ。復活されたイエス様は、私たちを食卓に招いているのです。

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