受難の主日(枝の主日) 4月13日(ルカ23・1―49または22・14~23・56)

受難の主日(枝の主日) 4月13日(ルカ23・1―49または22・14~23・56)
光に向かう受難

 イエスの受難の中で、ピラトは三度にわたってイエスの無罪を宣言しています。それだけではなく敵対していたヘロデまで引き合いに出して、イエスの無実を明らかにしようとしています。祭司長たちや長老たちが民衆を巻き込んでイエスを訴えたことは、事実無根であり、それらは嫉妬や誹謗中傷によるものであることをピラトは知っていました。
 マタイは、ピラトは「人々がイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(マタイ27・18)と言っています。彼らのイエスに対するねたみの深さはどんな手段を使ってでもイエスを葬り去らねばならないと決意させていました。

 ピラトは万難を排してでも、公平な観点から真実を明らかにすべき立場にありました。しかし、イエスを十字架にかけよと叫ぶ声はますます強くなり、その脅しにピラトはもろくも崩れ去ります。結局、ピラトは自分を守るために、イエスの無罪という真実を守り通しはしませんでした。
 優柔不断でなんの決断もしないところから悪は生じます。祭司長や長老たちに迎合し、自分の身を守るために、責任のある人間としてなすべき決断をしないことで、本来歩むべき神への道を外れていきました。それを押し通そうとした指導者たちとそれに加担した人々も同様でした。

 今の世にあっても、真理をゆがめられ、嫉妬や誹謗中傷によって葬り去られていく人々は決して少なくありません。このように葬り去られ苦しむ人々に、イエスは自ら苦しみながら、寄り添い、独りにはしておかないお方です。そして、わたしたちがこのような苦しみに追い込まれる事があっても、イエスはご自分と共に歩むようにとわたしたちを招きます。

 十字架上に押し上げられたイエスは、ご自分を死に追い込んだ人々をかばい、天の父に赦しを願い、最後の隣人となった犯罪人の願いに応えて迎え入れます。
 そして、ある著名な神学者の晩年のことばを思い出します。
 「わたしたちは死に向かって生きていく中で、ふたつの言葉に生を貫かれる。『わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と『父よ、わたしの霊をみ手に委ねます』。この神に見捨てられたことを告白する言葉と、神のみ手に自らの命をゆだねる言葉をとおして、解き難い問いを受け止める人は、イエスの生涯を自らと分かち合いながら光に向って生きるのです」

 十字架の死を引き受けられるイエスは、わたしたちが主の道を歩もうとして苦しむ時、決して独りにしない神です。

 (中川博道神父/カルメル修道会 カット=高崎紀子)

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