復活節第2主日(神のいつくしみの主日) 4月12日 ヨハネ 20・19ー31 見ないで信じる信仰

 わたしたちは皆、見えない神様を信じています。そこで、信仰生活の中で、何かを通してでも見えない神様に出会い、神様の存在を少しでも感じたいと思っています。信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することだからです(ヘブライ11・1参照)。今日の福音に書いてあるように、イエス様は実際、福音書に記されていないたくさんのしるしを行われ、イエス様の時代に人々はそのしるしを見ました。もちろん、イエス様は復活されて今も生きておられるので、そのしるしは今も引き続き行われています。そしてそのようなしるしを体験した人々の物語が教会の中でたくさん伝承されています。
 だからといって、しるしを経験した全ての人が確固たる信仰を持つようになるわけではありません。イエス様の時代にも、たくさんのしるしを示してくださったにもかかわらず、信じない人もいたのです。多くの人々が奇跡を経験してみたがっていますが、その理由は、奇跡を通して主が本当に生きておられると気付いたら、より確実に信じることができるだろうと期待するからでしょう。あるいは、試練や苦しみを受けて傷つき、神様が本当におられるか疑いが生じた時、自分に対する神様のいつくしみを確認したくて奇跡を望む場合もあるでしょう。しかし、多くの人々にとっては、好奇心と疑惑のためです。不思議で驚くべきことを実際に自分の目で確認したいと思うのです。そしてそれが自分の信仰に役立つと思うのでしょう。
 ところが、主が望んでおられる真の信仰は、奇跡やしるしを経験したかどうかに何の関係もありません。むしろ、見ないで信じる信仰なのです。奇跡やしるしを通しても信じることはできます。しかし、それに頼る信仰は、さらに大きな奇跡やしるしを求めるようになります。不思議で驚くべきことがない信仰生活を無意味に思い、結局、不思議なことを行われない神様を恨んだり、否定したりすることになるのです。見なければ信じられないと言うトマスに対して、イエス様はご自分の手と脇腹の傷を見せてこう言われます。「見ないのに信じる人は、幸いである」
 わたしたちも皆、トマスのように復活されたイエス様に会いたいと思いますが、トマスが復活されたイエス様だと分かったのは、その傷を見てからなのです。そこから、この世にあってわたしたちが受けた傷は、わたしたちが復活にふさわしい者になって永遠の命を受けるとしてもなくならないという意味でしょう。すなわち、受難の傷が復活の証拠になるのです。同じように、わたしたちが主の復活によって新たにされたことに気付くためには、まず自分が受けた傷、イエス・キリストと共に受けた困難と苦しみ、そしてイエス・キリストと共に死を迎えたところを見つめなければなりません。主の復活の証拠は奇跡やしるしではなく、主が受けられた傷にあるからです。わたしたちの信仰は復活の信仰です。奇跡やしるしを見ようとする信仰者ではなく、逆に人の傷や苦しみに目を向ける信仰者になりましょう。見ないで信じる復活の信仰はそこにあるからです。
(ダニエル・キム・ドンウク〈金桐旭〉神父/韓国殉教福者聖職修道会 カット/高崎紀子)

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