四旬節第4主日 3月15日 ヨハネ 9・1ー41または 9・1、6ー9、13ー17、34ー38 大丈夫!

 

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大丈夫!

 生まれつき目の見えない人について、弟子たちがイエス様に「この人の不幸は誰のせいですか?」「自業自得ですか、それとも親のせいですか?」と上から目線で見て、とんでもないことを尋ねています。イエス様はさぞがっかりされたことでしょう。弟子たちは苦しみの中にいる人に対して、その痛みや悲しみを見ようとも、気付こうともせず、無関心でした。そこには やさしさ、思いやりは一切ありません。ヨハネ福音書はあえてこのやり取りを残しています。イエス様は怒ることなく「神様のお働きが明るみに出るため」とお答えになり、汚れ、きたないものである唾で、安息日に禁じられていた土をこねる作業をしてまで、その人に関わろうとされます。それはその人に向けられている悪意を自分に対して向けさせ、少しでもその人をかばうためのイエス様のやさしさに満ちた行為です。イエス様なら土を使わなくても簡単に目をお開きになることができたはずです。
 その人の両親は自分たちの子どもが道端で物乞いをしていたことを知っています。ほんとに苦しく、悲しく、もどかしかったでしょう。お母さんは自分の作ったご飯を自分の子どもに食べさせてあげたかったでしょう。それを許さない現実、それに対して、怖くて物の言えない悲しい社会。イエス様は負けません。信仰の目を開かれた彼ももう負けません。徹底的に責めてくる人々にたじろぐことなく、彼は力強く証しします「神様は、神様をあがめ、神様のみこころを行う人の言うことは聞いてくださいます。…あの方が神様の元から来られたのでなければ、何もできなかったはずです」と。弟子たちはさぞ恥ずかしくなったでしょう。イエス様のこころに全く気付いていなかった自分たちのことを。
 ある方と神父さんの話です。その方はずっと家におられました。ほとんど外に出ることなく人目につかないように生活されていました。神父さんはその方に「教会でお手伝いしてください」とお願いされました。外に出て生まれて初めて教会の祭壇をきれいに飾る。不安や戸惑いがあったはずです。新しくお友達もでき、喜びのうちに神様のため、教会のために一生懸命祭壇を飾られていました。「あの神父さんがわたしに声をかけて救ってくださったんよ」。うれしそうに話されるその方の目には深い寂しさもありました。「神父さんに置いていかれた」と。その神父さんはさっさと天国に行かれました。その神父さんとのお別れの時に、聖堂の真ん中で大声で泣いておられるその方を見て、わたしは「神父さん、なんで最後まで一緒にいてあげなかったんですか?」と心の中で文句を言いました。
 福音の最後に、イエス様は「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのがその人だ」とご自分が癒やした人にほほ笑んでくださっています。
 神父さんは一緒にいることよりも、イエス様と一緒に天国へ行くことを教えたんだろうな。
    (寺浜亮司神父/福岡教区 カット/高崎紀子)

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