四旬節第3主日 3月8日 ヨハネ 4・5ー42 または4・5ー15、19bー26、39a、40ー42 イエス様が与える水

 四旬節第3主日に当たり、今日は特別に「水」について一緒に黙想したいと思います。今日の第1朗読でわたしたちは、マサとメリバで起こった出来事について聞きました。民は喉が渇いて水を欲しがっています。しかし、荒れ野の真ん中でどこからも水を得られそうもなかったので、民はモーセに不平を言い出しました。すると、神様はモーセを通して民に水を与えてくださいました。
 水が出るとは全く考えられない岩から水が流れ出ました。そこで人々は初めて「主は我々の間におられる」ことに気付きました。今日の朗読にも書いてあるように、マサは「試し」、メリバは「争い」という意味で、神の民がモーセと争い、主を試したからそのように名付けられたのです。イスラエルの民はそうした経験を忘れないために、今日の答唱詩編である詩編の95章を歌う時、最後に続いて「あの日、荒れ野のメリバやマサでしたように、心を頑(かたくな)にしてはならない。あのとき、あなたたちの先祖はわたしを試みた。わたしの業を見ながら、なおわたしを試した」(詩編95・8-9)と歌っているのです。
 今日の福音で、イエス様はあるサマリアの女と長い対話を交わされます。その主題は「水」でした。イエス様は「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われます。そして、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とも言われます。
 もしわたしたちが水を求める必要がないとすれば、それはわたしたちの生命を維持するために必要な水を十分に摂取したからでしょう。ところが、わたしたちが生きている限り、その水分はわたしたちの活動によって段々なくなります。そのため、わたしたちは再び水を求めるようになり、水分を補給しなければなりません。しかし、イエス様の水はその人の内で泉となってそこから水が湧き出るので、再び水を求めなくてもいいと言われているのです。
 それでは、イエス様がわたしたちに与えようとされるその水は一体何なのでしょうか。そのサマリアの女もそのような水があれば再び水をくみに来なくてもいいから、その水を下さいと、イエス様に願います。しかし、イエス様はその女に水を与えるどころか、彼女を困らせることをお尋ねになります。それからその女はイエス様との対話によってイエス様が、来たるべきメシアであることに気付き、自分の町の人々にこのことを告げました。では、永遠の命に至る水を求めたそのサマリアの女にイエス様が与えてくださったものは何だったのでしょうか。
 それはまさにイエス・キリストがメシアであること、すなわちご自分に対する信仰なのです。今日の第2朗読で使徒パウロは、イエス・キリストがわたしたちに与えてくださったその信仰について話しながら、キリストによって神との間に平和を得ていると言っています。その信仰はわたしたちのうちに与えられています。キリストに対するその信仰がわたしたちの内で永遠に渇くことのない泉となるのです。使徒パウロが言っているように、わたしたちはその信仰によって義とされ、永遠の命を得、神の栄光にあずかることになるからです。
(ダニエル・キム・ドンウク〈金桐旭〉神父/韓国殉教福者聖職修道会 カット/高崎紀子)

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