年間第4主日 2月1日 マタイ 5・1ー12a 心の貧しい人々

 聖書は万人に向けられた神の言葉である。ただし、霊感のみならず人間の参与もその成立に関わっているため、そこに地理的および歴史的文化的制約が反映されるのは当然である。マタイは、直接の読者としてはユダヤ人キリスト者を想定して福音書を書いたと言われている。マタイ本人もユダヤ人であったから、読み手と書き手との間には旧約聖書の世界という共通理解が前提されていたことになる。とりわけ、二者間に介在した共通の前提が色濃く表れているのは次の一文であろう。
 「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」。マタイとは異なる背景かつ言語世界に住む人間にとっては必ずしも明瞭ではないが、当時の読者にはあうんの呼吸で伝わったはずの一つのイメージがここにある。それは、旧約聖書に登場する人物で同じく山に登ったモーセの姿である。マタイは「(イエスが)山に登られた」と書けば、同時代の読者が自然とそこにモーセの姿を重ね合わせて読むだろうことを分かって意図的にそう書いたのである。だとすれば、後に続くイエスの言葉は単なる教え以上の意味を持つ。すなわち、シナイ契約が根底にあると前提するならば、「八つの幸い」は「十戒」にも相当するキリストの教えの核心ということになる。
 ところで、山上の説教は次の一文で始まる。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」。ここで「貧しい人々」と訳されているギリシャ語のプトーコスは聖書を離れた文脈においては経済的に貧しい者を意味し、物乞いをしなければ生きていけない人々のことを指す。ただし、「貧しい」の意味をマタイが前提しているところのヘブライ語の文脈の中で理解しようと努めるならば、「心の」が仮になかったとしても、一語で「神の前に貧しい」という解釈も可能になる。マタイはユダヤ人であったから、ギリシャ語を使用する際にもヘブライ語のニュアンスで使っていたと推察できるからである。つまり、第一義的には極貧を意味するプトーコス(=貧しい)をマタイは「神の前に自分が無力で取るに足りない者であることを認めている」という意味でも使うことができたのではないかという解釈の可能性である。それに「心の」を付け加えたのは、可能性として内包する「神の前における貧しさ」をより明確にし、曖昧さを排除する意図があったからではないか。
 そして、「幸いである」も、聖書が伝統的に伝えてきた神の前における「幸い」を意味する。ギリシャ語の原文では形容詞のマカリオス(=幸いな)が一連の文の冒頭に置かれている。この語順は詩編1を想起させる。「いかに幸いなことか、(中略)主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」(1・1~2)。ここで文頭に来るのがヘブライ語のアシュレー(=幸い)でありギリシャ語70人訳では真福八端(しんぷくはったん)の始まりと同じマカリオスが使われている。こうした語順に、さまざまな幸いが世にあまたある中でこれこそが幸いだという詩編作者および福音記者マタイの矜持(きょうじ)を垣間見る思いがする。神と共に生きる幸い、神の前にこうべを垂れる幸いを生涯かけて学ぶ者でありたいと願う。
(熊川幸徳神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子)

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