待降節第3主日 12月14日 マタイ 11・2ー11 救い主についての確信

 今日の福音は洗礼者ヨハネについて述べています。
 わたしたちは既に洗礼者ヨハネが主の道を整えるために遣わされた人物であることを知っています。洗礼者ヨハネ本人も自らそのような使命を受けていることを人々に伝えました。
 そう考えると、ヨハネは主について、つまりその方がどなたなのかについてはっきり分かっているはずなのに、今日の福音を見ると、そうでもないようです。

 今日の福音でヨハネは、自分の弟子たちを送ってイエス様に尋ねさせますが、その時ヨハネ自身は牢の中にいました。
 ヨハネが牢の中で死を迎えたことはよく知られています。つまり、それがヨハネの生涯の最期だという意味です。
 時間的にヨハネがイエス様について証言し、イエス様に洗礼を授けた後になると思われますが、その時点でヨハネはこのように尋ねているのです。
 「来(きた)るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。
 この質問を見ると、ヨハネもイエス様がメシアかどうかについてよく分からなかったか、あるいは確信できなかったということでしょう。

 しかし、イエス様ははっきりと答えてはくださいませんでした。むしろ、見たことをヨハネに伝えるよう彼の弟子たちに命じられます。それは、目の見えない人が見え、足の不自由な人が歩き、死者が生き返る姿でした。
 それがイエス様とヨハネだけが知っている暗号か、しるしかと思うかもしれません。実に、その全ては預言者イザヤがあらかじめ預言した内容で、それが今、実現されているという意味です。
 メシアが来るとき実現されるという預言が全て、今、実際に起こっているのです。弟子たちが見て伝えた話を聞いて初めて洗礼者ヨハネは確信することができました。

 わたしたちは神が示してくださる前に、その計らいや摂理について知ることができません。
 そのため、神はよく理解できないわたしたちのために、先に示してくださいます。
 そしてこう言われます。「わたしにつまずかない人は幸いである」。
 主が来られるのを待ち望むこの時、神が今、何を行っておられるのか注意して見聞きする必要があります。そうすれば、わたしたちも洗礼者ヨハネのように、救い主が来られたことを確信することができるでしょう。

(ダニエル・キム・ドンウク〈金桐旭〉神父/韓国殉教福者聖職修道会 カット/高崎紀子)

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