王であるキリスト 11月23日(世界青年の日) ルカ 23・35ー43 十字架のイエスこそ王である

 十字架にはりつけになっているイエスとそれを取り巻く者たちの様子を描いているのが本日のルカ福音書の内容です。
 十字架のイエスを真ん中にして信じない者と信じる者に分かれている構図になっています。
 イエスを信じない者とは議員たち、兵士たち、犯罪人の一人です。彼らはイエスをユダヤ人の王にも、メシアにもなり損ねた男としてさげすむように見下しています。
 信じる者とはもう一人の犯罪人です。彼は十字架にはりつけになっているイエスの中に本当の王、救い主の姿を見いだしています。

 信じない者たちがイエスに浴びせている言葉は共通しています。「自分を救ってみろ」です。
 多くの奇跡を行って他人を救ってきたのだから、自分を救うことくらい簡単だろう。ユダヤ人の王、メシアなら十字架から降りられるはずではないか。
 しかし、イエスにはそれができないのだから王でも救い主でもない。このように、イエスが王でありメシアであることを否定し、議員たちはあざ笑い、兵士たちは侮辱し、犯罪人の一人はののしっています。

 ところが、もう一人の犯罪人は、イエスが無実でありながら罪を担おうとしていることを認め「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と憐れみを求めます。
 これはイエスの中に救い主、王としての姿を見いだした者の信仰告白の言葉ではないでしょうか。
 「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とイエスはもう一人の犯罪人を温かく励まし慰めています。

 本日の福音箇所では、「メシア」と「王」という言葉がそれぞれ2回ずつ使われています。
 多くの人々はメシアに強い王の姿を重ね合わせていました。武力や力でもってさまざまな苦しみや抑圧から自分たちを解放し、自由と平和をもたらしてくれる王をイエスに期待したのでした。
 しかし、イエスはそのような王、救い主ではありません。全ての人は神に愛されていると説き、隣人を愛し、ゆるすよう呼びかけ、自由と平和をもたらすために十字架に赴いたイエスこそが王であり救い主なのです。
 そのようなお方としてイエスを祝うのが「王であるキリスト」の祭日です。
(立花昌和神父/東京教区 カット/高崎紀子)

  • URLをコピーしました!
目次