主の昇天 6月1日 ルカ 24・46ー53 旅する教会

 ルカ文書は主の昇天で終わり(ルカ福音書24章)、主の昇天に始まる(使徒言行録1章)。ルカ福音書と使徒言行録の共通の著者と考えられているルカはなぜ両文書の終わりと始めに「昇天」を書いたのか。「先に第一巻を著して」それについては述べたのだから、「続編」では「昇天」後の話から書き始めてもよかったのではないか。なぜ、2度扱う必要があったのか。こうした疑問が引きも切らず湧いてくるのは私が門外漢であるせいに違いない。

 ところで、新約聖書の中で「昇天」という言葉が名詞で登場するのはただの1回である。しかもその箇所が「昇天」の場面ではないというのだから驚きを禁じ得ない。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9・51)。ここで「天に上げられる」と訳されているギリシャ語のアナレームプシスがいわゆる「昇天」に該当する単語であり、字義通りには「上げられること」を意味する。

 E・マルチネス神父(1931~2021年/イエズス会)は、主の昇天について語る際、先に引用したルカ9章に随分こだわって説明をする聖書学者の一人だろう。彼は、ルカにおけるイエスの「アナレームプシス(=上げられること)」を単なる「昇天」とは考えず、受難・死・復活・昇天の全てを含む出来事だと強調する。しかもその始まりは「エルサレムに向かう決意を固められた」時にあると。従って、9章後半以降イエスの身に起こることは全てアナレームプシスなのだと言う。要するに、ルカにおける「昇天(=アナレームプシス)」は「旅」なのだとマルチネス神父は言いたいのである。

 これは例えば同じことを過越祭の前後を挟んで「この世から父のもとへ移る」(ヨハネ13・1)ことと考えていたヨハネとは幾分違うことになる。ヨハネにとってのそれは「移ること」であるのに対して、ルカのそれは「旅」なのである。

 こうした解釈は必ずしも平明とは言い難いが、私たちも宣教という旅を通してこの神秘に参与すると考えるならば、主の昇天をお祝いする意味は少なくとも「天を見上げて立っている」(使徒言行録1・11)ことにはないと言えそうである。今日の福音でもイエスは天に上げられる時、弟子たちに宣教の使命を授け祝福も与えている。さらには「地の果てに至るまで」(同1・8)証しすることが期待されている。

 福音書において、ルカはイエスの時代の終わりとして一度は「昇天」を書いた。だが、その「続編」を書き始める際、今度は教会の時代の始まりとして、また新たにそれを書く必要を感じ取っていたと思われる。教会はいつの時代においても福音宣教をその使命とするものであり、宣教は「旅」となり、「旅」こそは主の昇天に起因するわれわれが生きるべき教会の本質なのだろうと思う。
(熊川幸徳神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子) 

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