長崎県五島列島が私の故郷である。子ども時代の夏休みは海が遊び場だった。筏や桟橋からはよく飛び込んだし、家の玄関から駆け出し、そのままの勢いで目の前の海へ飛び込んだこともある。
ただ、「裸同然だったので、上着をまとって飛び込んだ」(ヨハネ21・7参照)記憶だけはどこをどうさらっても出てこない。これは今日の福音に描写されているペトロのとった行動だが、不自然とも思える一連の動きをどう理解すればいいのだろうか。
まず思いつくのは、着衣をイエスへの敬意と見なす解釈である。主イエスにお目にかかるのに、さすがに「裸同然」でいいはずがない。そう考えたペトロはとっさの判断で上着を身に着け湖へ飛び込む。この解釈は思い付きの域を超えて、「着衣問題」をあらかた解決してくれそうな印象を受ける。
ところが、ここには二つの疑問点も残る。一つ目は、そもそもペトロは「裸同然」であったはずがないという異議である。こう主張する聖書学者たちは存外多い。
理由の第1として、彼らは気象条件を挙げる。春のガリラヤ湖は日没後に気温が下がり、夜通し「裸同然」になって働けるものではない、と。「裸の」を意味するギリシャ語の形容詞ギュムノスはいわゆる「裸の」状態を意味することもあるが、文脈によっては「軽装」や「貧しい身なり」を意味することもある。恐らくこの時のペトロは「裸同然だった」というよりも、働きやすい何らかの服をまとっていたのではないか。
また、聖書学者たちが「着衣」を問題視する二つ目の理由は、そのことによって生じる「泳ぎにくさ」である。これについては「泳ぎにくさ」を引き受けてでも主への敬意を優先するはずだ、というペトロの性格を力説することで十分な反論が成り立つと思われる。
ところが、まさにこうした一種の違和感、つまりわざわざ泳ぎにくい格好になって飛び込むだろうか、というある種の引っ掛かりに関して、レイモンド・E・ブラウンは「上着をまとって(ディアゾーンニューミ)」という動詞に注目しながら持論を展開するのである。
この動詞には衣類を身に着けるという意味もあるが、自由に動けるよう身に着けている衣服をたくし上げて縛ることを意味する場合もあると言うのである。もし後者の意味合いに重きを置くとすれば、ペトロは既に着ていた服をたくし上げ、泳ぎやすい格好になって湖に飛び込んだとも考えられる。
いずれにしても大事なことは、水をくぐって復活した主に出会うという洗礼のシンボルがここに用いられていることであろう。その時に必要なのは着飾ってみ前に出ることではなく、仕事着や普段着のままで、つまり、ありのままの私として主に近づくことではないかと思う。
(熊川幸徳〈くまがわ・ゆきのり〉神父/サン・スルピス司祭会)
