学生だった時の話です。ほんの軽い気持ちでしたが、わたしが調子に乗り過ぎてしまい、やさしい友達を憤怒させてしまったことがあります。
「しまった、また調子に乗り過ぎた…」。時すでに遅し。真っ赤になった彼の顔、つらそうな目でわたしを見ていました。あれを思い出すと、今でも身震いします(-_-;)。激しい後悔、家に帰り、「どうしよう…」。別の友達にすぐに電話。友達は「謝った方がええんちゃう」と。そんなことは分かっているんです。謝りたいんです。しかし、人は怖いから謝れないんです。思いつくだけの謝らないで済む言い訳を挙げました。「とにかく謝り」。そのことばにはわたしと怒らせてしまった友達を気遣うやさしさが込められていました。
今日のイエス様も同じです。あなたたちのことはもう全部分かっている。仲たがいするお互いを気遣ってくださり、わたしたちにできる仲直りをしなさいと、やさしさを注いでくださっています。
次の日は教会法の試験でした…。記憶に鮮明に残っています。教室に入るとみんないて、楽しそうに試験の準備をしていました。わたしは誰にも声をかけずに教室の隅の席に独り座りました。ほんとに恥ずかしかった。そして怖かったです。試験中ずーっと、どうやって謝ろうかと苦しんでいました。試験内容は何も覚えておりません( ;∀;)。試験が終わり彼を呼び止めました。
「ほんとごめん」
自分中心に考えると今日の聖書箇所はつらい内容です。でも、苦しんでいる人々を守るために読むのなら福音となります。
わたしたちの目はイエス様を見るために、手はイエス様、ご聖体を受けるため。
「あなたはいつくしみとまことに満ちた方、わたしたちがあなたに背いたとき、いつも回心を呼びかけ、ゆるしのみ手を差し伸べてくださいます。わたしたちはその声に耳を貸さず、あなたの導きに従いませんでした。それでも、あなたはわたしたちを死の闇に見捨てることなく、人類が新しいきずなで結ばれて、一つの家族となるように、御子イエスを十字架上の死に渡されました」(『ミサ典礼書』ゆるしの奉献文Ⅰより)
十字架上のイエス様がわたしたちを見てくださっていることを知り、苦しむ人々の中にイエス様を見て、共に手を合わせる。わたしたちの目と手は、イエス様と人々と共に歩むための信仰の目と手です。
見捨てずに「謝り」と言ってくれた友達。
「もうええよ」
勇気を出して謝ったわたしに返ってきたことばです。親友たちができた瞬間でした。
(寺浜亮司神父/福岡教区 カット/高崎紀子)

