待降節第2主日 12月7日(宣教地召命促進の日) マタイ 3・1ー12 宣教地召命促進の日

 洗礼者ヨハネは「荒れ野で叫ぶ者の声」(マタイ3・3)として登場する。「悔い改めよ。天の国は近づいた」。これが彼のメッセージの主眼である。同じメッセージをイエスも宣教活動を始める際に繰り返しているが、イエスが湖畔の町カファルナウムで第一声を発したのに対して(マタイ4・12-17参照)、ヨハネは荒れ野で叫ぶ。
 一見すると、荒れ野で声を上げることは理屈に合わないことのようにも思われる。荒れ野は人の住み着かない場所だからである。それは命を受け付けない場所であり、当然、生活空間にも適さない。そこへわざわざ出かけて行って言葉を発するよりも、人のいる町や村で語る方がはるかに理にかなっていると考えたくもなる。ヨハネは何故「荒れ野」で叫んだのか。ヨハネのこうした活動にはどんな意味があったのだろうか。

 第一に考えられるのは、荒れ野へ赴くことによって生じる言葉の重みであろう。言葉は生き方と不可分の関係にある。そう考えると、ヨハネはあえて厳しい場所に身を置いて、そこから言葉を発信して生きる道を選んだと推察することもできる。その結果、ヨハネの元には「エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々が来た」(同3・5参照)のだから、荒れ野で発した言葉は多くの人に届いたのである。

 第二は聖書の読み方に関する事柄で、こうした読み方が良いのか悪いのか私にも判別ができない。ただし、個人的には「荒れ野」を人間の心の状態として読んでみたい気持ちがある。つまり、「悔い改めよ」という洗礼者ヨハネの言葉がむなしくこだましているのは、2000年前の荒れ野ではなく、今の私の心の中なのかもしれないという一種の隠喩的方法を用いた読み方である。
 「回心せよ」というヨハネの言葉は、私に向けて語られているのに、私がそれを受け止めず、受け止め手を欠いた言葉は荒れ野におけるのと同じように私の心の中でいたずらにさまよい続ける。今週の福音をこうした霊的意味に解釈して信仰生活の糧にしたいと思う。

 第三は、上述した第二の考え方のもう一つの側面ということになる。すなわち、ヨハネの言葉は受け止め手を持たない私の心という荒れ野においても、絶えず繰り返し語られ続け、それがやむことはないであろうという一種の希望につながる解釈である。わざわざ荒れ野を選んでそこに住むことを決意したのだから、隠喩的解釈をさらに拡大するならば、私の元を簡単に離れることはないということにもなる。
 ただ、仮にそうした解釈を貫くのであれば、それを言い訳にせず、併せてそのことを神の忍耐として受け止め、回心を急ぐべきである。人の住まない荒れ野を人の住む場所に、人の子イエスの住む場所に急いで整えるべきである。
(熊川幸徳神父/サン・スルピス司祭会 カット/高崎紀子)

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