今日、教会はラテラノ教会の献堂を祝います。ラテラノ教会は現在、ローマの司教座教会であり、「ローマと世界のすべての教会堂の母であり頭」と呼ばれています。つまり、ラテラノ教会の献堂を記念することは、使徒ペトロから受け継いでいる教会の信仰を告白し、一致を祈るという意味があります。ラテラノ教会にはイエス様が最後の晩餐を行ったといわれる食卓の聖遺物が保管されているので、毎年教皇様はここで聖木曜日の主の晩餐のミサをささげているのです。
さて、今日の福音で、イエス様は神殿を清められます。その方法というのは、商売人や両替人たちを神殿から追い出すことでした。イエス様の時代の人々は供え物として牛や羊などの動物を用いていました。ところが、遠くから来る人々は牛や羊などの供え物を準備することができませんでした。そこで、そのような人々のために神殿の境内に商売人や両替人たちが出てきたのです。そもそも神様が供え物をお定めになったのは、人々が心を込めて供え物を準備し、奉献することによって神に礼拝をささげ、感謝をささげるためでした。
ところが、商売人や両替人たちが神殿の境内に登場してから、人々はお金さえあれば心を込めて供え物を準備しなくても手軽に祭儀をささげることができるようになりました。供え物を準備する本来の精神は色あせて、神殿で祭儀をささげるためには、まずお金が幾ら必要か計算することになってしまいました。イエス様はそのような思いを神殿から追い出して神殿を清めようとされたのです。
わたしたちは今日、イエス様が清めようとされる神殿がわたしたち自身を意味するのだと理解することができます。なぜなら、使徒パウロはわたしたちが生ける神の神殿(二コリント6・16)だと言いましたし、またわたしたちの体は聖霊が宿ってくださる神殿(一コリント6・19)だとも言ったからです。
商売する人は自分の利益と損害を計算します。わたしたちもしばしば信仰生活の中で自分の利益と損害をはかりにかけることもあるでしょう。教会に行くと自分にどんな利益があるのか? 時間を割いて祈ることは自分にとって無駄ではないか? そういう観点から、今日イエス様が清めようとされる神殿とは、わたしたち自身に他なりません。わたしたちは自らを清めることができないので、今日イエス様は多少厳しく振る舞い、神殿(わたしたち)を清めようとされたのです。
わたしたちは、これまでどれだけかたくなになっているのか、どれほど教会で神と取引をして損得を計算してきたのかを振り返らなければなりません。そしてイエス様が神殿から商売人たちを追い出したように、わたしたちも損得勘定を捨て去り、イエス様に自分自身を委ねて清めていただき、清い神の神殿になることに致しましょう。
(ダニエル・キム・ドンウク〈金桐旭〉神父/韓国殉教福者聖職修道会 カット/高崎紀子)

