【バチカン10月8日CNS】その旅路がどれほどありきたりだったり、または不安定だったりしても、イエスは常にあらゆる人と一緒に歩いておられる、と教皇レオ14世は強調する。
「時に私たちは、主が訪れてくださるのは私たちが観想している時や霊的な熱意を感じている時だけだと思ってしまいます。自分たちは何だか偉いように感じて、人生がうまくいっていて、輝いているように思える時です」と教皇は10月8日、バチカンのサンピエトロ広場で開いた一般謁見で指摘した。
「そうではなく、復活された方は、まさに私たちが暗闇の中にいる時に寄り添ってくださるのです。それは私たちが挫折を味わっている時、人間関係で消耗している時、日々肩に重くのしかかる苦闘の時、不安を招く疑いの時です」と教皇は説明する。「私たちの在り方や人生のどんな一場面も、主にとって関係のないことではありません」
主の過越で全てが恵みとなる
一般謁見で聖年のテーマ「イエス・キリスト-私たちの希望」について講話を続けている教皇レオは、キリストの復活には単純さと謙遜が伴っていると説いた。
「復活された主は何か壮大なことを行って、弟子たちの信仰を圧倒しようとはなさいません」と教皇は指摘する。「主は天使の軍団に囲まれて現れるのでもなく、目覚ましい遺業を成し遂げることもなく、宇宙の秘密を啓示する荘厳な説話を行うこともありません」
「私たちは得てして、特殊な感覚や力のしるし、有無を言わさない証拠を期待してしまうものです」と教皇は続ける。「ところが主はそのようなことは求めません。寄り添いのことばと自然な振る舞い、食事を共にすることを選ばれるのです」
教皇レオは説明する。「ここに大切なメッセージがあります。復活は劇的な一撃ではなく、人間のあらゆる行いを意味で満たす穏やかな変容なのです」
人の体と物語と関係性は、ただ消えゆくものではなく、「いのちの完成に向かうため」にあり、そのためには、「愛によって変容した人間性のうちに、神と私たちの兄弟姉妹とのより深い交わりに入ること」が求められる。
「キリストの過越のうちに、あらゆることが恵みとなるのです。全く日常的なことさえもそうです。食べること、働くこと、待つこと、家事をすること、友達を支えること」と教皇レオは説く。
神の愛を遠ざける距離はない
「それでも、日々の生活の中でキリストの現存を認めることを度々妨げる障壁もあります。喜びには苦しみが伴ってはならないという思い込みです」
悲しみのうちにエマオへと向かう弟子たちは、メシアの行く末に「違った結末」を期待していた、と教皇は指摘する。「ところが、イエスは二人の弟子たちと一緒に歩き、辛抱強く助けて、苦痛は約束の否定ではなく、神がその愛の大きさを示してくださる道なのだと理解させます」
弟子たちの目は主と一緒に食卓に着いた時に開き、弟子たちは、悲しみのうちにあっても、「自分たちの心は燃えていた」ことに気付く。「これは最大の驚きです。どんな幻滅や疲弊の灰の下にも必ずおき火が生きていて、再び燃え上がるのを待っていることを見いだすのです」
教皇レオ14世は、一般謁見に参加した人々に語りかける。「キリストの復活が私たちに教えているのは、どんな歴史でも失望または罪に傷つけられたまま希望が訪れないことはないということです。どんな挫折も決定的ではなく、どんな夜も永遠には続かず、どんな傷も永遠に開いたままでは終わらないのです。どれほど遠く離れ、途方に暮れて、自分には価値がないように感じるときが私たちにあっても、決して負かされることのない神の愛の力を消し去るほどの距離などありません」
