教皇の一般謁見講話 この世の力に人生の意味はない

【バチカン10月15日CNS】権力や財産や地位では、人生の真の意味を求める切望を満たすことはできない、と教皇レオ14世は説いている。
 「復活されたイエスだけが、私たちを支えて、満たす真の永続する平和を与えることがおできになります」と教皇は10月15日、バチカンのサンピエトロ広場で開いた一般謁見の英語による講話の要約で語った。
 「私たちは、この世で達成したことや過ぎゆく安定感で、真に満足することはありません」と教皇は強調する。「というのも、私たちは神の似姿につくられていて、聖霊の力を通して、私たちの心の中にある何かそれ以上のものへの尽きない切望を意識するからです」

 復活されたイエスは「生きた泉」
 
 一般謁見で聖年のテーマ「イエス・キリスト-私たちの希望」について講話を続けている教皇レオ14世は、キリストの復活が全ての心にある望みを完成に導くと説いた。
 「私たちは忙しい生活を送っています。結果を出すことだけに集中して、崇高で立派な功績を挙げることさえもあります」と教皇は、イタリア語による講話で指摘する。
 「私たちは幸せになりたいと願いますが、何の不安もなく、いつも幸せでいるのはとても難しいのです」と教皇は続ける。「私たちは心の奥底で、いつも何かが欠けていると感じています」
 「実際には、『ヨハネによる福音書』(10・10参照)の表現にあるように、私たちは欠乏のためにではなく、豊かにされるため、人生の中で喜びを味わい、豊かにいのちを生きるためにつくられているのです」と教皇は強調する。
 「この私たちの心の奥底にある望みが最終的に見いだす答えは、地位にも権力にも財産のうちにもありません。その答えは、この私たちの人間性を形づくる情動を確かにしてくださる方がおられるという確信にあるのです。こうした期待がくじかれることも、無駄に終わることもないことを知るのです」
 復活されたイエスは、「私たちの渇きを癒やしてくださる泉です。この限りのない渇きは、聖霊が私たちの心に注いでくださる豊かないのちへの渇きなのです」と教皇は説明する。「実際、キリストの復活は単なる人類史上の出来事ではありません。人類の歴史を内面から変えた出来事なのです」
 ちょうど水が渇きを癒やし、被造物を生き返らせ、大地を潤して、「不毛と思われていたもの」を豊かにするように、「復活された方は生きた泉」で、常に「清くあり、渇いている人を誰でも癒やす心づもりでおられます」と教皇は説明を続ける。

 「愛されて、救われる家」に導かれる
 
 イエスだけが「私たちの心の奥底にある問いに答えてくださいます。本当に私たちには行き先があるのか。私たちが生きていることに意味はあるのか。そして、あまりにも多くの罪もない人の苦しみが、あがなわれることはあるのか」。
 「復活されたイエスは、私たちに『上から』答えを与えるのではなく、私たちの仲間となって、このしばしば困難で痛みを伴い、不可解な旅路を共にしてくださいます」と教皇レオは強調する。「主だけが、私たちの渇きが耐え難いものになったときに、私たちの水筒を満たしてくださるのです」
 イエスはまた、「私たちの旅の目的地です。主の愛がなければ、人生の旅は目標もない放浪になり、行き先のない悲劇的な過ちとなってしまいます」。
 教皇レオ14世は、こう付け加える。人間は間違いを犯す「弱い被造物」にすぎないが、信者たちは復活された方の助けによって、「再び起き上がる」ことができる。主は「私たちの行き先を保証し、私たちが待ち望まれ、愛されて、救われる家へと導いてくださるのです」。

10月15日、バチカンのサンピエトロ広場で開いた一般謁見の前に、広場を巡って来訪者や巡礼者にあいさつして回った教皇レオ14世は、教皇の衣装を着けた赤ちゃんを抱き上げた(CNS photo/ Vatican Media)


  • URLをコピーしました!
目次