【バチカン10月9日CNS】多くのキリスト者は「改めて福音書を読み直す必要がある」。信仰と貧しい人への愛は切り離せないことを忘れているからだ、と教皇レオ14世は自身初の教皇文書で強調している。
「その貧しさの形態がどうであろうと、貧しい人への愛は、神のみ心に忠実な教会の福音的な証しです」と教皇は就任後初の「貧しい人への愛について全てのキリスト者に宛てた」使徒的勧告「ディレクシ・テ」(わたしはあなたを愛した)で宣言している。
教皇レオは10月4日、アッシジの聖フランシスコの記念日に、同使徒的勧告に署名し、バチカンが10月9日、本文を公表した。
同使徒的勧告の執筆は教皇フランシスコが始めていたが、教皇レオはそれに加筆し、自身の教皇職の早い段階で発表することを望んだ。「私は私の愛する前任者と願いを共にしているからです。全てのキリスト者が、キリストの愛と貧しい人を大切にすることへの招きの密接な関係を正しく理解するようになることです」
この結び付きは、新しくも現代のものでもなく、教皇フランシスコの発案でもない、と教皇レオ14世は説明する。実際に「聖書は初めから、弱く貧しい人を守る神の姿を通して、神の愛を生き生きと示してきました。それは神が特に貧しい人に愛情を注ぐといわれるほどでした」。

バチカンの謁見ホールに約1300人を招いて昼食会を開いた
教皇フランシスコ(CNS photo/Remo Casilli, Reuters)
貧しい人を優先してきた教会
「私は確信しています。貧しい人の優先的な選択は、教会と社会の双方にとって、特別な刷新の源となるのです」と教皇レオは強調する。「私たちが自己中心的な姿勢から解放され、貧しい人の叫びに耳を傾けるようになりさえすれば」、それができるのだとしている。
教皇レオは5月の選出当初から、世界の富裕層と最も貧しい市民の間の格差を非難し、特に女性がしばしば「二重に貧しくされて」、子どもたちを養うのに苦労している上に、権利や機会まで限られていると指摘してきた。
さらに教皇レオは、教会が遅くとも1960年代から示してきた教説を再確認する。その教えは、社会の「構造的な罪」が貧しい人を貧しいままの状況に閉じ込めて、十分な資産を持つ人が貧しい人を無視するか、自分たちの方が優れていると考えるようになっているとする。
教会が説くように、神が貧しい人を優先することは、「神にとってはあり得ない」排他的な行いや他者を差別することを決して許さない、と教皇は説明する。
ただし、「貧しい人の優先的な選択」という表現が「意図しているのは、全人類の貧しさと弱さに心を動かされた神の行動を強調することなのです」。
さらに教皇レオ14世は説明する。「正義ときょうだい愛と連帯のみ国を望まれている神は、差別されたり抑圧されたりしている人を特にみ心に留めておられます。そして私たち、神の教会に対して、最も弱くされている人たちのために決定的で根本的な選択をするよう求めておられるのです」
その選択には、司牧的、霊的な配慮だけでなく、教育や医療、職業訓練や慈善事業も含まれ、その全ては教会が数世紀にわたって提供してきたことだと教皇は付け加えている。

「ラウダート・シ村」で開いた昼食会で、地元アルバーノ教区カリタスの
支援を受ける人と話す教皇レオ14世(CNS photo/Lola Gomez)
移住者を大切にしてきた教会
同使徒的勧告の中では、特に移住者についての節があり、教皇はこう書いている。「教会は常に、移住者のうちに生きておられる主を認めてきました。主は裁きの時に、その右側にいる者たちに告げられます。『旅をしていたときに、宿を貸してくれた』」
「マタイによる福音書」の「すべての民族を裁く」項にある25章35節から引用されたこの箇所で、イエスは、信者たちが貧しい人や病者、収監者、外国人への対応の仕方によって裁かれると、はっきりと宣言している。
「教会は母のように」、自分と家族のためにより良く、安全な生活を求めて「旅路に就いている人と共に歩みます」と教皇レオは強調する。
「世界が脅威を覚えているとき、教会はその子どもたちに目を向けます。壁が築かれている所では、教会は橋を築きます」と教皇レオは続ける。「教会は承知しています。福音を告げ知らせることが信頼を得るのは、それが寄り添いと歓迎の行いに表れているときだけなのです」
そして教会は知っている。「歓迎されない移住者たちのうちにキリストご自身がおられ、その共同体の戸口をたたいておられるのです」
教皇レオ14世は同使徒的勧告の中で、聖書の記述に言及して、貧しい人を愛して世話をする務めを強調し、教会の歴史の中で貧しい人との生活や奉仕に献身した聖人たちや修道会の行いを挙げている。
同使徒的勧告では、初代教会の神学者たち、「教会の教父たち」についての節があり、その中で教皇はこう強調している。教父たちは、「貧しい人のうちに、神に出会うための特権的な方法として、神に近づく恩恵の道を認めていました。困窮する人に向けられる慈善の業は、ただ単に倫理的な徳とされただけでなく、肉となられたみことばへの信仰の目に見える表現だとみなされていたのです」。
