【バチカン9月3日CNS】人の愛への渇きは弱さのしるしではなく、誰も完全に自分だけで生きることはできず、救いは神に愛していただき、支えていただくことによって得られることを示している、と教皇レオ14世は指摘する。
「誰も自分を救うことはできません。人生が『成し遂げられる』のは私たちが強い時ではなく、私たちが受け入れることを学ぶ時なのです」と教皇は9月3日、バチカンのサンピエトロ広場で開いた一般謁見で強調した。
教皇レオ14世は一般謁見で、イエスの最後の日々を記す福音箇所に希望を見いだす講話を続けている。今回は「ヨハネによる福音書」19章28節でイエスが「渇く」と言われたことについて話した。
「神の御子でさえも、ご自分を救おうとはされないのなら、私たちの愛と人生の意味と正義への渇きも、挫折のしるしではなく、真理のしるしとなるのです」と教皇は説明する。
「求めることを恐れていけない」
イエスの十字架上の渇きは、ただ生理的なものではないと教皇は指摘する。「何よりも、深い望みの表れでした。愛と関係と交わりへの望みです。それは神の沈黙の叫びです。私たち人間の境遇の全てを共にすることを望まれ、ご自分がこの渇きに見舞われるままにされたのです」
イエスは飲み物を求めることを恥とはせず、「愛が真実となるためには、与えるだけでなく求めることも学ばなければならないと私たちに告げています」。
社会では自足と効率と能力ばかりがもてはやされている時代に、「福音が私たちに示すのは、私たちの人間性の広さは、私たちが達成できることによって決まるのではなく、自分が愛してもらい、必要なときには、助けてもらう力によって決まるということです」と教皇は強調する。
イエスの十字架上の渇きは「私たちの渇きでもあります。それは、今も生きた水を求める、傷ついた人類の叫びです。この渇きは、私たちを神から遠ざけるのではなく、私たちを神と一つに結び付けます」と教皇は説明する。
助けを必要としていることを認めるなら、「私たちの弱さは天の国への架け橋になるのです」。
教皇レオ14世は講話の最後に、人々に語りかける。「『私は必要としています』と言うことができる以上に、人間的で、素晴らしいことはないことを学んでください。特に自分がそうするのにふさわしくないと思われるときにこそ、求めることを恐れないでください。手を差し出すことを恥じてはいけません。まさにこのような謙虚な行いの中にこそ、救いが隠れているのです」
