震災で 司祭召命の原点再び 名古屋教区 片岡義博神父に聞く

 名古屋教区の片岡義博神父は、2024年の能登半島地震以降、同教区「カリタスのとサポートセンター」(金沢市/以下・サポートセンター)のセンター長として復興支援に取り組んできた。震災直後、「自分には(復興支援活動は)無理」としか思えなかったと言う片岡神父に、その思いがどのように変えられていったのかを聞いた。教区がサポートセンターの開設を決めるまでの間には、自身の司祭召命の原点にも通じる「隣人」との出会いがあったと片岡神父は言う。

片岡義博神父
 輪島行きをやむなく断念

 発災当日の2024年1月1日、片岡神父は能登半島中部に位置する七尾教会(石川県七尾市)で『神の母聖マリア』のミサを司式し、夕方には車で金沢教会(金沢市)に戻っていた。  
 「翌日から1週間休みを取り、名古屋の実家に帰省したり、神学校時代の仲間と過ごしたりするのを楽しみにしていた」ところ、午後4時10分、地震が起きた。
 「金沢も相当、揺れた(震度5弱)」が、予定通り休みを取れるよう、片岡神父は司牧を担当している七尾教会と、能登半島北部の輪島教会(石川県輪島市)の状況を見に行くことにした。
 車で金沢市中心部を抜けると、事の重大さが見えてきた。いつも使っている自動車道は入口の手前で土砂が崩れ、通行できなくなっている。友人からは、寸断された自動車道の写真がメールで届いた。往生していると、金沢の小教区を一緒に司牧している九里(くのり)彰神父(カルメル修道会)から電話が入った。「もう暗くて危険だから、帰ってくるように」と九里神父に諭され、この日は金沢へ引き返すことにした。
 翌2日朝、片岡神父は下道(したみち)を使い、七尾教会を訪ねた。数年前に修繕していた建物の被害は軽微だったが、聖堂も司祭館も棚から落ちた物などが床一面に散乱していた。
 被害の状況をLINE(ライン)のビデオ通話で松浦司教に報告し、輪島へ向かった。ところが、その途上は路面が崩れ、別の迂回路は大渋滞だったため、この日も輪島行きを断念した。輪島教会に隣接する海の星幼稚園の園長からの電話や、メールで届く写真で教会や園の状況を確認し、随時、松浦司教に報告した。

 自分には「できません」

 3日、片岡神父は、松浦司教とカリタスジャパン責任司教の成井大介司教(新潟教区)、そしてカトリック中央協議会の「緊急対応支援チーム」(現「カリタスジャパン緊急対応支援チーム」(CJ-ERST/イーアールエスティー)による緊急オンライン会議に参加し、被害の状況を共有した。
 ERSTは、自然災害が発生した際に被災教区の要請に応じて派遣され(原則3カ月間)、初動態勢づくりをサポートする。
 会議中、片岡神父はERSTの一人から「(能登半島で)災害支援を行う可能性はありますか?」と尋ねられたが、その場では「できません」としか答えられなかったと、こう振り返った。
 「なぜなら、私は石川県の教会だけでなく富山県の司牧も兼任していたからです。一緒に働いている司祭たちは、ほとんど後期高齢者で、信者さんも少なく、高齢化しています。しかもそこで私がイメージしていたのは、2011年の東日本大震災で、教会が行った支援活動の現場でした」
 それは各地に開設した拠点(ベース)に全国からボランティアを迎え、試行錯誤しながら被災者の必要に応えていくという活気あふれる現場だ。「あれを能登でできるだろうか?」と想像しても、無理としか思えなかった。
 「その時、ERST(当時)の方は『そうですよね』と、私の思いをくんでくださいましたね。でも『とりあえず、私たちは次の日曜日(7日)に金沢へ行きますから、一緒に(輪島も含めて)視察に行きましょう』と言われ、その会議は終わりました」
 以後3日間、片岡神父は九里神父や金沢の信徒と共に七尾教会を片付け、生活用水や支援物資を届けた。隣接する聖母幼稚園が早く再開できるよう、支援物資は幼稚園にも届けた。

 輪島へ

 震災後、最初の主日となった1月7日朝、片岡神父は先の緊急会議の参加者らと共にワゴン車3台に支援物資を積み、出発した。能登半島南西部の羽咋(はくい)教会(同県羽咋市)を視察後、七尾教会でミサをささげ、聖母幼稚園を見舞った。

七尾から輪島への途上、落石に注意を払いながら、道をふさぐ岩(写真左)と
倒れ掛かった電柱(写真右手)の間を進む片岡義博神父の車(2024年1月7日)

 輪島に着く頃、雪が降り出した。帰路、日没後の路面は見えにくくなるため、やむなく輪島教会での滞在時間は30分ほどに限ることにした。積雪も相まって地割れに気付かないまま走れば、事故を起こす心配があった。

海の星幼稚園園長の前江田恒子さん(当時)の話を聞きながら、
園のホールに物資を運び込むERSTら支援者たち(2024年1月7日)

 一行はまず幼稚園を見舞い、園長や信者の話を聞いた。食料やおむつなどの物資を園に運んだ後、教会の被災状況を確認した。
 園長から届いた写真の通り、教会の外壁は崩れ、駐車場のアスファルトに深い亀裂が走っていた。園のバスは、前方が車庫のシャッターを突き破って外に飛び出している。聖堂に入ると、祭壇の上にあるはずの重い大理石の天板が床に落ち、聖母像は倒れて手が破損するなど、被害は甚大だった。

輪島教会の聖堂。建物の反対側の外壁は縦1メートル以上、
幅数メートルにわたって剥落していた(2024年1月7日)
輪島教会の聖堂内(2024年1月7日)。片岡義博神父は信者たちが
受ける衝撃を想像し、「この状況をSNSで発信することはできない」と考えた
 「やれることを、やる」

 その晩、金沢教会に戻ってからのことだ。片岡神父は松浦司教に、こう相談したという。「司教さん、(ERSTへの返事は)どうします?この状況で」。そこで返ってきたのは一言、「う~ん」と考え込むような声だけだったが、片岡神父の中には3日の会議の時とは違う思いが芽生えていたという。
 当時、能登半島の広い地域で停電や断水が続いていた。だが各所で道路が崩れたため、支援団体が現地入りして被災者に食料などの物資を届けるのも困難だった。輪島は孤立状態にあった。
 「輪島の信者さんや幼稚園の園長先生方は、私たちの姿を見るとほっとした表情を浮かべ、涙して(来訪を)喜んでくださいました。私はあの日、輪島の人たちの表情を見て、素直に『あ、この人たちを孤立させてはいけないな』と感じたのです」
 小教区の司牧が大変な中で被災地支援まで始めれば「自分がつぶれる」という心配はあった。それでも「やっぱり、やれる事をやるしかない」と覚悟が決まったと片岡神父は語る。
 そしてこの時にふと思い浮かんだのが、司祭叙階の記念に作ったカードだったという。
 カードは、聖書の「善いサマリア人」のたとえの箇所でイエスが語った、「だれがその人の隣人になったと思うか」(ルカによる福音書10・36参照)という問いかけを記したもの。温かみのある色彩で、二人の人物の出会いの場面が描かれている。

「だれがその人の隣人になったと思うか」という
みことばが記された片岡義博神父の司祭叙階記念のカード
 今後も能登の人たちの隣りに

 片岡神父は、助祭の頃、司祭召命に確信が持てなくなった時期があったという。きっかけは、当時の日本のカトリック教会の受洗者数が、10年前に比べて3割も激減しているという事実をカトリック新聞で知ったことだ。
 他方、社会に目を向ければ、毎年3万人近い人たちが自らの命を絶っていた。「苦しんで、心がからっからに枯れてしまっておられる多くの人たち、たくさんいるはずの、救いを求めたい人たち」に対する自身の「無関心さ」を突き付けられた。
 「誰がその人の隣人になったと思うか」
 片岡神父は、こう自分に問いかけ、導こうとするイエスに従い、2015年に司祭叙階の恵みを受けた。
 今回の能登半島地震は、その司祭叙階のモットーを初心に立ち返って見つめ直す機会にもなっているという。
 サポートセンターの開設が決まったのは、震災後初めて輪島まで出かけた日の翌朝(24年1月8日)だ。センター長となった片岡神父は支援活動を始めて以来、司牧者である自身が地域の人と「いかにつながってこなかったか」も痛感してきたという。
 片岡神父はそうした気付きを重ねる一方、「全壊」指定を受けた輪島教会の公費解体、その後の再建にも携わった。新しい輪島教会は、カリタスのとサポートセンターの「輪島ベース」も備えたもので、震災から1年9カ月たった9月27日、献堂式を迎えた(→関連記事)。
 ベースは10月8日に開設された。「新しい教会がシンボルとなって、これからも能登の人たちの隣人であれるよう、歩んでいけたらと思います。新たに青年スタッフも迎えたので、楽しんでやっていきます」と片岡神父は話していた。

輪島教会(写真左手)の献堂式では、海の星幼稚園の園児たちが賛美歌
『神様がわかるでしょ』を元気に歌った(写真右手は幼稚園の園舎/2025年9月27日)
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