チンドン人生と「愛」

 里野立(さとの・たつる)さん(47/千葉・西千葉教会)は、屋号「ちんどん喜助」のプロチンドンマン「豆太郎」として宣伝の仕事の傍ら、演劇の舞台にも挑戦しているアーティストだ。里野さんに、カトリック教会で育った思い出や、宣伝の仕事のこと、そして「小さな命」と過ごした日々のことを聞いた。

先頭でちんどん太鼓をたたきながら商店街を練り歩く里野立(たつる)さん(本人提供)
 教会仲間のつながりは今でも

 東京・阿佐ヶ谷生まれの里野さんは、3歳の時に家族で千葉に引っ越し、高校卒業までを過ごした。両親、姉、弟と毎週日曜日に教会に通っていたが、里野さんにとって教会は、文化的な面でも大きな意味を持つ存在だった。
 「(西千葉教会は)青年会が盛んだったので、教会には遊びに行く感覚でした。ギターを教えてもらって、みんなでバンドをやったりしていました」
 里野さんは、当時の教会仲間と今でもつながりを持っているという。日曜日に仕事が入ることも多いが、自宅近くの高齢者施設に入所する93歳の伯母の望みもあり、現在は月に2回ほど一緒にミサにあずかっている。

 菊乃屋〆丸(きくのや・しめまる)親方との出会い

 里野さんは仙台の大学で心理学を学んだ。そこで芝居にも取り組んだ後、全身白塗りで踊る前衛芸術である「舞踏」を学ぶために東京へ来たが、やがてチンドンの仕事に興味を持つようになった。
 「それまでは役者や音楽をやってきましたが、自分自身をアピールするのは(自分としては)違うなと思いました。(スポンサーの宣伝をする)チンドンの仕事は(観客からの)拍手も強要しないし、誰に対しても腰を低くしているのがいいなあと思ったんです」
 28歳の時、東京でチンドン一筋に仕事をしていた故・菊乃屋〆丸親方を訪ねた。里野さんが「勉強させていただきたい。弟子にしてください」と言うと、親方は「まあ、弟子とか何とか言うよりも、これはあまり勧められない仕事だよ。体にはまあいい(仕事)かな」と答えたという。親方の元に何度か通い、菊乃屋に入れてもらうことができた。
 だが、この選択を心配した家族からは反対を受けた。母は高校の教員、父はドイツに留学し、後のベネディクト16世から神学を学んだ研究者だ。「チンドンを仕事にしたい」と打ち明けた時、母からは「芝居なら分かるけどチンドンは分からない。収入面でも心配」と言われた。父親には「お前はカンドウだ!」と言われたが、それは「勘当」だったのか、「感動」だったのか、あるいはその両方か、里野さんは今でも分からない。
 〆丸親方の下で6年間修業し、2010年に「ちんどん喜助」として独立。里野さんは「(自分が代表になって)立ち上げたものの、自分の未熟さでうまくいかないこともありました。『何一つ人を幸せにできていない』と沈んだこともありました」。
 「苦しい時は(今でも)親方が目に浮かぶんです。『里野くん、大丈夫だよ』って」。東京の下町生まれで江戸言葉がするっと出てくる、優しかった親方に、里野さんは「実践的な愛」を感じていた。「菊乃屋一門(の弟子たち)にとって誇りの親方でした」。

 太郎ちゃんとの日々

 里野さんは菊乃屋時代から、富山市で毎年4月に開催される「全日本チンドンコンクール」に出場を続けている。今年も4月4日から6日まで開かれた同コンクールには、今までとは全く違う心持ちで挑んだ。前年11月末に生まれたばかりの長男・太郎ちゃんがその時、病気と闘っていたからだ。
 太郎ちゃんは2024年11月28日に生まれた。その3日後、仕事に出ていた里野さんに妻から電話がかかってきた。担当の看護師が太郎ちゃんの様子に違和感を覚え、別の病院で精密検査を受けることになったのだ。太郎ちゃんはそこからさらに、東京・世田谷区の国立成育医療研究センターに搬送された。
 里野さんは仕事から戻り、化粧を落として急いで同センターに駆け付けた。里野さん夫妻に医師は「落ち着いて聞いてくださいね」と前置きしてから病状を説明した。
 太郎ちゃんは先天性の染色体異常である「オルニチントランスカルバミラーゼ(OTC)欠損症」だった。肝臓からたんぱく質を分解する酵素が出ないため、アンモニアの解毒ができず、体中を巡ってしまう、8万人に一人の難病だ。この日から太郎ちゃんは入院し、治療を受けることになった。
 入院後、太郎ちゃんは小腸の半分ほどにも異常が判明。母乳もミルクも取ることができず、点滴での栄養補給と人工透析が続けられた。
 里野さんは仕事の合間を縫っては、病室の太郎ちゃんに会いにいった。「透析を受けて体はだるかったんじゃないかと思いますが、(成長につれて)呼びかけに応えるようになっていきました」。音楽好きの里野さんに似たのか、太郎ちゃんは音が好きだった。病室にアフリカの楽器・カリンバを持って行き、里野さんが親指ではじいて音を出すと、太郎ちゃんは「めちゃくちゃ興奮して、笑顔で『うわーっ』と喜ぶんです」。
 体の小さい太郎ちゃんは、点滴を入れられる場所が体に4カ所しかなく、そこから病原菌が入ってしまうことが一番の心配だった。医療スタッフらが懸命に治療に当たっていたが、とうとう恐れていた事態が訪れる。
 4月4日、里野さんがコンクール参加のため富山に着くと、妻から「ちょっと大変」と電話が入る。病原菌が体内に侵入し、太郎ちゃんは感染症にかかっていたのだ。医師は、「今夜が最期かもしれません。もし今日の夜、(里野さんが)東京に帰ってくるならそれまでは命を延ばすことができます」と告げた。
 しかし里野さんは東京へ帰ることを選ばなかった。妻も「やったら」と背中を押した。病院スタッフは病室に大きなモニターを運び入れ、太郎ちゃんに翌5日のコンクール予選に出場した里野さんの舞台を見せてくれた。そして父の舞台を生まれて初めて見た日の夜中、太郎ちゃんは息を引き取る。
 コンクール最終日は、富山の中心街をチンドンマンが練り歩く「チンドン大パレード」が行われる。里野さんはこのパレードにも、到底言葉にすることのできない思いを笑顔の下に隠し、最後までやり切った。

 思い至ったのは「愛」

 すぐに新幹線で帰京し自宅に帰ると、太郎ちゃんはすでに棺の中にいた。里野さんは「子どもが生まれたら教会に連れていくつもりだった」が、妻と話し合い、宗教によらない形での「お別れの会」を自宅で開いた。集まった友人一人一人に、太郎ちゃんを抱いてもらったという。
 しかし休む間もなく、里野さんは4月13日から歌舞伎とオペラを融合した舞台「浅草カルメン~遊女歌留女(かるめ)」への出演が控えていた。太郎ちゃんとの突然の別れを、心の中で整理する時間がないまま稽古やリハーサルをこなし、5月末までの公演を駆け抜けた。公演が終わって自宅に帰ると、妻の話を聞き、気持ちに寄り添い、夜が明けたらまた舞台に立つ日々を繰り返した。里野さん自身の、疲れやさまざまな感情があふれ出たのは公演の日程が全て終了してからだ。
 そして8月、里野さんはスコットランドで開かれたエディンバラ演劇祭でも「浅草カルメン」の舞台に立った。演劇祭で出会った役者たちと交流した際、「(里野さんには)キリスト教的な考え方がある」と指摘されたという。
 里野さんは「自分の人生はイエス様の教えと分かち難くあると思う」一方で、他宗教の考え方や哲学にも関心を向けてきた。エディンバラから帰る飛行機の中で、里野さんはこう思い至った。
 「それら(宗教や哲学)の考え方で、生きることの意味やこの世の出来事を分解するように解釈したとしても、それらを再び統合するものは『愛』なんじゃないか」と。「太郎ちゃんと一緒にいる時は、そこまで思いませんでした」 
 里野さんには、まだ言葉にできない思いがたくさんあるが、妻と共に一日一日を過ごす中で、徐々に「自分の歩みをちゃんと歩む」という気持ちを共有するようにもなってきたという。
 これから踊りや演劇など、さまざまな芸術に関わる人たちと一緒に、思いを合わせて新しいものをつくることも考え始めていると、里野さんは話していた。

 小児医療の最先端に密着したドキュメント番組「BSスペシャル 小児集中治療室 PICU~命と心に向き合う」(9月23日午前11時00分~午後0時00分・28日午前1時00分~午前2時00分、NHKBSで放送予定)では、里野太郎ちゃんの命に向き合った家族と医師たちの姿を知ることができる。

記者に話を聞かせてくれた里野立さん
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