今年は、第2バチカン公会議(1962~65年)が閉幕して60年目に当たる。カトリック教会の方向性を大きく変えたとされるこの会議はなぜ開かれ、何を変えたのか、また現在の私たちとどのようにつながるのか。ヨゼフ・アベイヤ司教(福岡教区)に聞いた。

ヨゼフ・アベイヤ司教=1949年スペイン生まれ。10代の頃に第2バチカン公会議が開かれ、その後、神学生としてスペインで、宣教師として日本で過ごしたほか、クラレチアン宣教会の総長顧問会のメンバーや総長として世界各国を巡回した。2020年から福岡教区司教。
― 第2バチカン公会議は、なぜ開かれたのでしょうか?
当時のカトリック教会が、教会の在り方を考え直さなければならない時期に来ていたからです。第1バチカン公会議(1869~70年)から100年近くが過ぎ、その間に二つの世界大戦もありました。第2次世界戦争後、「世界人権宣言」を国連が発表し(1948年)、人権に対する新しい認識が生まれました。また、社会では世俗化が進み、宗教から離れてしまう人々は多くなりました。世界が大きく変化した中で、教会もそれまでと同じではいられなくなっていたのです。
神学の研究者は、かなり前からそのことを指摘していましたし、典礼の刷新運動はフランス、ベルギーやオランダなどで既に始まっていました。エキュメニズム(教会一致運動)や他宗教に対する教会の姿勢も変わりつつありました。聖書の研究も進んでいました。
その中で、教皇ヨハネ23世は第2バチカン公会議を招集しました。その時でなかったとしても何年か後には開かなければならなかったでしょう。教会は行き詰まっていたのです。
― 第2バチカン公会議によって、教会の何が変わったのでしょうか?
第2バチカン公会議(以下、公会議)で教会は大きく変わりました。その実りは、公会議が発表した四つの憲章の中によく表れています。
① 『典礼憲章』
一番、目に見える形で変わったのは典礼でした。それまで司祭は信徒に背中を向けてラテン語でミサをしていましたが、公会議以後は信者の方を向き、ミサはそれぞれの国の言葉で行われるようになりました。信徒の霊性は、信心を中心としたものから典礼を中心としたものに変わりました。信心も大事ですが、キリストの死と復活の神秘を、教会共同体として、信徒を含め皆が参加して祝うことの大切さがはっきり示されたのです。『典礼憲章』にはこう書かれています。「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉である」(『典礼憲章』10)。この位置付けはとても重要だと思います。
② 『教会憲章』
「教会とは何か」についての理解は、『教会憲章』で示されました。それまで組織的な側面が強調されていましたが、教会憲章の中で教会は神の民であり、神の愛のしるしであると宣言されています。また、教会の使命に対する理解にも変化がありました。公会議以後は、教えることより対話することに重点が置かれるようになりました。もちろん私たちは「教え」を伝えますが、それを「対話を通して」行うのです。教会は神の国を証しし、その実現に奉仕する共同体と捉えられるようになりました。中心は「教会」ではなく「神の国」です。信徒であっても修道者であっても、司祭であっても司教であっても、皆が神の国の実現に向かって旅する「神の民」であり、教会はキリストに導かれるこの「神の民」の共同体なのです。教会の位階的な構成がなくなったわけではありませんが、それは教会という「からだ全体の善を目指す種々の役務」(『教会憲章』18)と表現されました。そして信徒の尊厳や使命にも、しっかりと光が当てられました。
③ 『神の啓示に関する教義憲章』
これは聖書に関して言及した憲章です。公会議は、全ての信者が聖書の本文そのものに近づくことを勧めました。それ以前は、信者が聖書を読むことはあまり勧められていませんでしたが、この憲章は教会による聖書の解釈を尊重しながらも、全てのカトリック信者に、聖書を読んで「イエス・キリストを知るすばらしさ」(フィリピの信徒への手紙3・8参照)を学ぶように強く奨励しました。これによって、信者の交わりの中心に聖書を取り戻し、信者がみことばに養われていくようになりました。
④ 『現代世界憲章』
一番最後に発表されたのは『現代世界憲章』です。これは世界の現実に向き合う教会の姿勢を初めて示したものになりました。特に貧しい人々を優先することを記していました。冒頭には、こう書かれています。「現代の人々の喜びと希望、苦悩と不安、とくに貧しい人々とすべての苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、苦悩と不安でもある。真に人間的なことがらで、キリストの弟子たちの心に響かないものは何もない」
この憲章は、人々のあらゆる現実を、私たちがキリスト者としてどのように受け止めるのか。見えてくる課題にどう取り組むのかについて、新しい展望を開いたのです。
― 第2バチカン公会議が示したものは、具体的にどのように実行されましたか?
公会議を最初に真剣に受け止めて実行したのは、南米の教会だったと言えるでしょう。
南米はもともと司祭が少なく、一人の司祭が広い地域を担当しています。都会から離れた地域で、一つの小教区に40~50の巡回教会があるのは普通です。今でもそうですよ。そこで10~50人ぐらいの信徒たちが集まって「基礎共同体」と呼ばれる共同体をつくり、共に祈り、聖書を読み、分かち合うことを始めました。
南米コロンビアにチョコーという地域があり、アフリカから奴隷として連れて来られた人々の子孫が大勢住んでいました。彼らには土地の所有権がなく、貧しく苦しい生活を強いられていました。長く住んでいる土地でも国や企業の都合で追い出されてしまうことがあったのです。私たちクラレチアン宣教会はそこへ派遣されて、時間をかけて人々と一緒に『出エジプト記』を読みました。『出エジプト記』のテーマは、奴隷として捕らわれていた土地からの解放であり、自由の地へ出て行くことです。信者たちは自分たちの歴史を思い起こしました。モーセを通して働かれた神の姿が、自分たちの歩みの中にも見えてきたわけです。聖書の言葉が彼らの行動を導き、運動が起こりました。それは大きく広がっていき、最終的にはコロンビアの国会が、彼らの土地の所有権を認める法律を可決しました。
アジアでは1970年にアジア司教協議会連盟(FABC)が設立されました。74年には台湾の台北で第1回の会議を開き、アジアの教会の方針を打ち出しています。そこではアジアでの宣教の課題として「三つの対話」を示しました。それは「アジアの伝統的な文化との対話」「アジアの伝統的な宗教との対話」「アジアで暮らす人の大部分を占める貧しい人々との対話」、この三つです。これがFABCの出発点となりました。
日本で公会議の動きを全体で受け止めたのは、(87年の)第1回全国福音宣教推進会議(NICE1/ナイスワン)だったと思います。
日本の司教団は第2バチカン公会議の精神に基づき、70年代の初めに「社会に福音を」と呼びかけたが、あまり浸透しなかった。81年の教皇ヨハネ・パウロ2世訪日を機に、改めて最重要使命を「福音宣教」と認識。84年に「日本の教会の基本方針と優先課題」を発表し、優先課題の一つとして「全国福音宣教推進会議」の開催を決定した。
幸い私はその時、日本にいましたので、松浦悟郎神父(現・名古屋教区司教)や諏訪榮治郎神父(現・大阪高松教区名誉司教)と他の司祭、修道者、信徒と一緒に、協力を頼まれて参加しました。
NICEでは、信徒、修道者、司祭、司教が一つのテーブルを囲み、心を開いて体験を分かち合いました。そして信仰と生活、教会と社会が遊離することなく、生きた福音を伝えるためにどうしたらいいかを話し合いました。
信徒も自分たちの使命を見直しました。教会の一員としての責任を感じるようになったのです。信徒が力強く動けるように、信徒養成のプログラムもいろいろ生まれました。白柳誠一大司教と濱尾文郎司教(二人とも後に枢機卿)、相馬信夫司教、安田久雄大司教らがいて、当時の宣教研究所の所長だった岡田武夫神父(後に大司教)も中心的な存在でした。各教区の担当者が協力し、信徒たちも協力しました。それは生き生きしたひとときでした。
― 今の日本の教会にとって第2バチカン公会議はどんな意味を持つでしょうか?
今の教会があるのは、公会議のおかげだと思います。前教皇フランシスコが主導した直近のシノドスは、公会議のビジョンを実行するものだと言えるでしょう。もちろん世界は60年間で変わりましたので、新しい表現も思想も必要です。それでも教会は一つの道を歩み続けています。
教会の中には公会議を受け入れない人たちもいますね。公会議を真剣に受け止めたら、しんどい面はあるのです。「これをすればいい」という何かが決まっているわけではない。置かれた場でどのように信仰を生きるか、自分で考えなさいよ、みんなと分かち合って識別しなさいよ、ということですから。
識別は現実と切り離せません。自分の生活、社会の現実を見ることが大切です。「現実の社会で生活しているこの私」が、みことばを読む。そこで「こんな呼びかけを感じた」「こんなふうに力付けられた」と発見をすることです。出発点は現実なのです。現実の中でキリストは私たちに関わってくださいます。そのキリストに出会った時、信仰は自分のものになっていきます。
現在のシノドスのテーマも、「ともに歩む教会のため―交わり、参加、そして宣教」ですね。私は、日本の福音宣教の大事な課題は、霊性を深めることだと思います。つまり一人一人が「信仰を持ってよかった」という心からの確信を持つことです。それがないと、福音宣教を考えているつもりが、ただその方法論を考えるだけになってしまいます。福音宣教は、方法論では解決しないのです。
