国際ジャーナリストのエィミ・ツジモトさんは、アジア・太平洋戦争(1931~45年)における大日本帝国の戦争犯罪について旧満州(現・中国東北部)を中心に調べ上げ、本にまとめてきた。その「満州3部作」の完結編『七三一部隊「少年隊」の真実 戦後80年の証言から』(えにし書房)が3月に出版された。ツジモトさんが注目した点は「七三一部隊」の犯罪に14歳から15歳の少年たちが加担させられていた史実だ。戦後80年に何を思うのか――、ツジモトさんにインタビューした。
―ツジモトさんの「満州3部作」は、2018年に出版された『満州天理村「生琉里(ふるさと)」の記憶 天理教と七三一部隊』と、22年の『満州分村移民と部落差別 熊本「来民(くたみ)開拓団」の悲劇』、そして今回の新著ですが、まず「七三一部隊」について教えていただけますか。
【ツジモトさん】「七三一部隊」は、満州ハルビン郊外の「平房(へいほう)」に本部を置き、細菌兵器の研究開発、さらにその実戦使用を進めた日本陸軍の部隊のことです。正式名称は「関東軍防疫給水部」。細菌戦部隊はその他にも4部隊あり、さらに家畜の伝染病を兵器として開発する細菌部隊も存在しました。アジアにも支部を設けています。
―出版を決意されたのは、どのような思いからだったのでしょうか。
【ツジモトさん】本書の「プロローグ」にも書きましたが、「満州3部作」の第1弾で、「満州天理村」と「七三一部隊」の関係についてまとめました。その時に天理教関係者から、なかなかインタビューの協力をいただけなかったのですが、わずか数人の中に、親子で「七三一部隊」に関わったという事実を話してくださった方がいたのです。私は長年、満州にあった「天理村」に関する調査をしていたのですが、天理教信者のお一人は、終戦が近づく頃、「マルタ」と称された人たちの処分に関わっていたと証言してくれたのです。
―「マルタ」とは、丸太のように物体として扱われた人たちのことですか?
【ツジモトさん】本書でも「マルタ」と表現し、たいへん心苦しかったのですが、あえてこの言葉を史実に沿って使用しました。つまり、隊員たちは「七三一部隊」の新施設に送り込まれた中国人を中心とする他国の捕虜たちを「マルタ」と呼び、「人」と見なすことなく、彼らの体を切り刻んで「生体実験」を繰り返したのです。終戦直前には「マルタ」を毒殺・銃殺した挙げ句に証拠隠滅のためにあらかじめ用意された穴に次々と遺体を放り込んでいったといいます。「マルタ」は一人残らず殺戮(さつりく)され、彼らの証言は永遠に抹殺されたのです。
―あまりの凄絶(せいぜつ)さに言葉を失います。
【ツジモトさん】「七三一部隊」の広大な敷地内で「マルタ」を収容した施設は、7号棟・8号棟と位置付けられ、隊員たちは「ロ号棟」と称していました。隊員たちは敗戦の数日前から証拠隠滅のため、遺体を「ロ号棟」の2階の窓から放り投げていったそうです。先の証言者は、穴に投げ込まれた遺体を燃やすために火を付けて木をくべる任務に従事していたといいます。一刻も早く燃やさないといけない緊急事態に、彼はふと2階の窓を見上げます。そんな彼の目に一瞬、少年たちの姿が飛び込んできたという。彼は私にこう言ったのです。「窓から数人の子どもが見えた」と…。
―なぜ「ロ号棟」に子どもたちがいたというのでしょうか?
【ツジモトさん】彼も、なぜあのような場所に子どもたちがいたのか、ずっとけげんに思っていたそうです。「七三一部隊」の隊員の関係者や家族はみんな日本に引き揚げて、そこに残っていたのは自分たちぐらいなのに…と。彼はこうも考えたそうです。子どもたちは、(広大な施設なので)もしかしたら引き揚げの途中で家族からはぐれたか、あるいは引き揚げ列車に乗り遅れて半狂乱で親を探し回っているところで「ロ号棟」に行き着いてしまったのではないか、と。
それにしても、あのような特別監獄と言われる「ロ号棟」に、いくら開けっ放しだったとしても入るはずはないだろう、と。彼は敗戦後、歳を重ねても、あの時の「光景」だけは心に残っていた、と語ってくれたのです。
同時に、このことは初めて告白したんだ、と苦しい表情で語ってくれました。これをきっかけに、後に私は「七三一部隊」の「少年隊」の存在を知ることになります。
―この事実を、先の『満州天理村』のご著書で書かれなかったのですね?
【ツジモトさん】その通りです。なぜ「ロ号棟」に子どもがいたのか、私もそのことが心に引っかかっていたのです。ところが、それは彼一人の証言であって、その事実を証明する手立てがなかったので、『満州天理村』に書けず、ずっと心残りだったのです。
一方、かねてライフワークとして戦時期の埋もれそうな事実を書きたいと思っていましたので、「満州三部作」を完成させるために取材を進めていました。
いずれにしても、「七三一部隊」の「少年隊」の事実だけは残しておきたかった。そこでわずかに生存されている「七三一部隊」の関係者数人へのインタビューに挑みました。皆さん高齢になり、これが最後の機会だと思ったからです。その中で、「私が(爆弾を)運びました」と証言してくれた方に行き当たりました。その方こそが、先の証言者が「ロ号棟」で見た「子ども」そのもので、当時14歳の小柄な少年だったのです。その方は話してくれました。「捕虜の人たちの遺体が全部焼却された時点で、私たちは14歳でありながら施設を爆破するために爆弾を運んだのです」と。
―かつての証言内容を裏付ける証拠に出合い、さぞ驚かれたでしょう。
【ツジモトさん】驚いたのなんのって。それで一刻も早く、その方たちがご存命の間に本に書いて差し上げたいと思い、完成させたというのが、執筆の大きな動機の一つです。
―今回のご著書にまとめたのは、「七三一部隊」の罪深い所業に、少年たちがだまされ、利用されたという歴史の闇ですね。
【ツジモトさん】当時の高等小学校を卒業した優秀な14歳から15歳の少年を対象に、1937年から「七三一部隊」の「少年隊」の募集が始まりました。少年たちは「七三一部隊」の内実を知らされないまま入隊させられ、見習い技術員として、満州に渡ったのです。まさか、技術分野で満州に行っているはずなのに、先ほど申し上げた中国人を中心とする捕虜の人たちへの人体実験の助手をやらされるなど思いもしなかったのです。わずか14歳ですよ。人体実験ですから、当然いろいろな細菌実験に携わったわけです。
「少年隊」は、上官からの「お前たちも一緒に来て殺せ」との命令に逆らうことはできません。次々と毒ガスで捕虜の人たちが殺されていくその様を見ていた時に、少年たちは「こういうことだったのか」と気付くわけです。中には、細菌実験の犠牲になって命を落とした少年たちもいたわけです。一人の「少年隊」員が感染し、瀕死(ひんし)の状態でベッドに寝かされた時、同郷の少年が執刀させられた…こんなむごいことって、あるでしょうか。国の指導者たちは純粋な子どもたちを初めから欺いた。その踏みにじり方は、とても人間の所業とは思えないほどです。
―「満州3部作」を通して、次世代の人々に伝えたいことはありますか?
【ツジモトさん】これが戦争なんだということ。それを知っていただけるだけでも執筆した意義があるのではと思っています。何よりも当時14歳の少年たちが体験したことは、生涯重い足かせとなって、彼らを苦しめていった。戦争がいかにむごいことか。
よく「歴史から学べ」と言いますよね。これってとても簡単なようであるけれども、その一歩を踏み出して踏ん張ることはなかなかできない。一人一人「戦争はいけない」「戦争をやめろ」と声を上げることさえできていないのではないでしょうか。
戦後80年、いや「敗戦」から80年の今年、日本の人々が、かつての惨劇をかみしめ続けながら、怒りと共に声を上げる勇気を持つということは本当に必要だと私は思っていますね。だから「満州3部作」を書いたということです。
最後に、未来を担う若者たちに伝えておきたいことがございます。戦後から80年を経てこのような事実を明らかにできた理由、つまり史実を明らかにするのに80年もかかった理由。その一つは国家が少年たちに「事実」の黙秘を徹底させたことです。それでも、彼らは迫りくる「死」を前に、告白する気持ちになったのです。二つ目には、戦後、アメリカはこの事実を知りながらも「七三一部隊」の「研究成果」を入手したいがために、「七三一部隊」に関する情報を一切公開することを禁止してきたことです。今日まで史実を隠蔽(いんぺい)できたことは、日本政府にとってもこれほど「都合」のいいことはありませんね。
