長崎県平戸市の病院で薬剤師として働く近藤司さん(44/平戸ザビエル記念教会)は昨年10月、長崎市の浦上教会主任として戦後の復興に奔走した中田藤太郎神父(1910~99年/フランシスコ会)の生涯を書籍『道のさなか 中田藤太郎神父様を想う』(平戸ザビエル記念教会発行)にまとめた。近藤さんは、祖父の叔父に当たり、家族から「トウタロウシムサマ(藤太郎神父様)」と呼ばれていた中田神父の働きが平戸でも浦上でもあまり知られていないこと、また自分の信仰のルーツを知りたいという思いから、歴史を調べ、中田神父を知る人々へのインタビューを重ねた。そこで見えてきたのは「魂の復興がなければ教会は成り立たない」という強い信念の下、浦上の焼け野原で信徒たちを励まし、寝る間も惜しんで復興に当たった「シムサマ」の姿だった。

「シムサマ」の”正体”
中田神父は、実家に当たる近藤さんの家をよく訪ねていた。近藤さんの記憶に残る中田神父の姿は、色白で、ベレー帽をかぶり、東京銘菓を手土産に近藤家を訪れ、いつもパイプをくゆらせていた。
「僕が『シムサマ、たばこは体に悪いのになんで吸ってるんですか』と聞くと、はにかみながら『これはたばこを吸ってるんじゃない。香をたいているんだよ』とユーモアを交えて答えるような、機知に富んだ方でした」
しかし中田神父は、自分の過去の経歴については一切話すことがなかった。「ただ『神父様』、というだけで(特別な)印象はありませんでした」
近藤さんが高校生の時に中田神父は帰天。近藤さんは大学進学を機に平戸を離れるが、結婚に当たり31歳で平戸に戻った。結婚相手は信者でなかったが、教会で結婚講座を受けた。近藤さんは将来的には、結婚相手にも受洗してほしいと思うようになり、まずは「なぜ自分はカトリック信者として生きているのか、を説明できないと、相手に失礼なんじゃないかと思ったんです」。
そこで「トウタロウシムサマ」がどのような働きをした司祭だったのかを調べてみることにした。近藤さんは、「浦上の復興に当たった神父だったということを、調べてみて初めて知りました。親戚も、周りの誰も知らなかったことです」と話す。
中田神父は1910年に平戸で生まれた。叔父は長崎教区の中田藤吉神父、姉二人が修道女、父は平戸ザビエル記念教会の宿老(議長)を生涯務めた人物。信仰のある家庭で育ち、26歳で長崎教区司祭として叙階された。戦争で大村の部隊に徴集されるが、終戦の年の12月に浦上教会の主任司祭となる。
翌年の12月には、浦上教会の仮の新聖堂が献堂された。中田神父は病院や児童養護施設の設立にも奔走し、さらには「(戦争によって)親がない人には親を、夫がない人には夫を、妻がない人には妻を、と『家族の再建』にも取り組みました。結婚を300組余り成立させたそうです。家族の復興が地域の復興であり教会の復興であること、そして建物の復興だけでなく、魂の復興がないと教会が成り立たないという強い信念を持って、リーダーシップを発揮しました」。
「マッチ箱のような小さい所に寝泊まりして、結婚相談から何からやっていたそうです。秋月(辰一郎)医師(後の聖フランシスコ病院院長)と仲が良く、病院から危篤の連絡があれば病者の塗油を授けに行きました」。近藤さんは、あの「穏やかな品のいいおじいさん」だった「シムサマ」が、浦上の復興には欠かせない人物の一人だったことを思い知る。


写真下は永井博士が中田神父の口癖の「よかばい」にかけて描いた梅の絵。
(『道のさなか』から転載、近藤さん提供/共に長崎純心大学博物館所蔵)
あなた方も希望の星であれ、月であれ
中田神父は47年に五島の相ノ浦教会(現在の奈留教会)の主任になり、52年に聖フランシスコ病院での療養を経て、53年にフランシスコ会へ移籍。移籍後は埼玉や東京でも司牧した。そのことも平戸はじめ長崎の信徒たちに、中田神父の働きが知られていない一因ではないかと近藤さんは話す。
近藤さんには、平戸ザビエル記念教会が送り出した司祭が浦上の希望になったことを、平戸だけでなく浦上の人々にも知ってほしいとの思いが膨らんでいった。
「中田神父がしたことを事実として知ってほしい。このまま歴史に埋もれさせてはいけない。誰かが書かなければ。書くとしたら(遺族である)僕しかいない。遺族としてずっと見てきて、情報を知り得て、それが僕の務めじゃないかという使命感でした」
「(2025年は)ちょうど戦後80年でしたし、自分が調べたことを形にできたら、(まずは)平戸地区の中で広めたらどうかと思ったんです。じゃあ本を作ってみよう」と、10数年の間に集めた資料を基に本にまとめた。
一番伝えたいのは「司祭だけが希望なのではない、あなた方が希望の星であり月なのだ」と言いながら信徒を励ました中田神父の思いだ。
中田神父は遺品をほとんど残さなかったが、最期まで大事に持っていた1通の手紙がある。差出人は、おそらくカトリックの洗礼を受けていない「中二 X(エックス)」。当時、埼玉県の北浦和教会の主任だった中田神父が受け取ったその手紙には、教会に週に何度か10円玉が包まれた鼻紙が置いてあると思うがそれは落とし物ではないこと、自分の家は社長の家でも裕福でもないが、今自分はとても幸せなので少しずつでも貧しい人のために寄付を続けたいという思いがつづられていた。
近藤さんは「最後、遺族である僕にこれ(手紙)が伝わってきたのは、中田神父様からのメッセージではないかと思っています」。
「(中田神父は)感動したんだろうと思います。転任先でもこの手紙をずっと持ち続けて、ボロボロになっても死ぬまで離さなかった。唯一の遺品と言ってもいいと思います」。どんなに小さい人であっても誰かの希望になること、自分よりも困っている人にとっての希望になることを表す手紙を受け取った中田神父は、「ものすごくうれしかったのではないでしょうか」。
近藤さんはこの人に「あなたの手紙が残っていたよ、と伝えてあげたいと思います」とも話した。
NBC長崎ラジオで1月12日(月・祝)午後7時からの『あの人この歌あぁ人生』では、近藤さんのインタビューを放送予定。

