平和実現は託された使命 長崎純心大学でシンポジウム

 長崎市の純心女子学園(設立母体・純心聖母会)には、1945年8月9日の原爆投下で「純女学徒隊」の生徒と教職員214人が犠牲になり、校舎の全てを失った歴史がある。今年で創立90周年を迎えた同学園にとって、核兵器廃絶と恒久平和の実現のための活動を続けることは、失われた214人の命から託された使命でもある。
 今年は被爆80年でもあり、この使命を果たすための一歩としての公開シンポジウム「純心平和の集い」が11月22日、長崎純心大学で開かれた。同大学の学生・教職員約250人が参加し、他のカトリック大学の学生・教職員らもオンラインで参加した。 
純心聖母会が運営する恵の丘長崎原爆ホームの利用者2人から直接、被爆体験を聞き、学生たちがグループで感想を発表した。同大学の在学生と教員、卒業生によるパネルディスカッションと、小グループに分かれての対話の時間も持たれ、平和実現のために自分たちはこれから何ができるのか、思いを語り合った。

 渡された平和のバトン

 被爆証言をした築地重信さん(90)は10歳の時に、爆心地から500メートルの場所で被爆した。幼い頃から絵を描くことが好きだった築地さんは、これまでに原爆の惨状を400枚余り描いてきた。画集『母の風景』も出版している。
 築地さんは2枚の作品を紹介した。1枚目は、自分が通っていた山里小学校の被爆当時の様子を描いた作品。市販の絵の具ではなく、校舎を再建する際に出た、床板が消し炭になったものと、同校の教員から分けてもらった3色のチョーク、それぞれをすり鉢で粉にし、「にかわ」を混ぜたもので色を付けた。
 もう一枚は、原爆で命を落とした人々の遺体が集められ、寝かされて荼毘(だび)に付されるのを待つ様子を描いた作品。描かれた被爆者らは服を着ているが、実際は裸だった。築地さんは見たままを描くのは「忍びなくて」、服を着た姿で描いたのだという。築地さんは、防空壕(ごう)の中に逃げ込んできた被爆者たちが「水が欲しい」と言って亡くなっていったこと、体中に刺さったガラスや傷に湧いたうじをピンセットで取ってもらっていた記憶も話し、こう結んだ。 
 「こういう悲惨なことを後世に伝えるのも、私たちもみんな年を取ってしまってだんだん少なくなってきました。皆さんが、若い人たちが、この惨状を次の世代に伝えてください。どうかよろしくお願いします」
 平山恵美子さん(91)は、被爆80年を迎えた今年から語り部活動を始めた。当時11歳で、長崎市の稲佐地区に住んでいた平山さんは、爆発でがれきの下敷きになったが命は助かり、家族も無事だった。平山さんは終戦後、両親、弟妹と両親の出身地である長崎県の五島に帰る小さな舟の中で目にした被爆者たちの記憶を丁寧に、絞り出すように話した。
 5組の家族を乗せた舟は、夕方に出発。平山さんは母親に「(舟の中では)しゃべったらだめ」と言われたので、じっとしていた。脇に自分よりも年上の少女がおり、その母親が顔をやけどした娘の顔を、海水にぬらして絞ったタオルで拭いてあげていた。「『痛かー』って言って、本当にかわいそうでした」「舟に乗っていてもお通夜のようでした」
 原爆で亡くなった家族3人を抱いて舟に乗っている父親と息子もいた。五島に着くと、その家族を迎えにきた「おばあさんはわんわん泣いて」。
 平山さんは長崎市内に住んでいた時は「幸せでした」。しかし母親は後に被爆が原因で他界。その時「妹が3歳、弟が7歳。あの子たちが泣く時、私は泣ききりませんでした。(家の)外に出て『原爆さえなかったら私は幸せに暮らしていたのに』と泣きました」
 平山さんは体験を語り終えると、参加者たちに「もう戦争は嫌です。私は年でなんもできません。平和のバトンをあなたたちに渡します」と思いを伝えた。

 相手の立場に立って考える

 同大学2年生の内山明希(あき)さんと荒木知優(ちひろ)さんは、今回の話以外に原爆ホームを訪ねて直接築地さんの話を聞き、そこで感じたことを発表した。荒木さんは、築地さんが結婚などで差別を受けてきたことを知り、「差別や偏見を少しでも減らすよう私たち一人一人ができることを考え、行動していくことが大事だと強く実感しました」と考えを述べた。内山さんは「これから平和を担うのは、被爆者の方々だけでも、私たちのような若者だけでもなく、世界中の一人一人なんだと改めて確信しました」と話した。
 同じく2年生の松本愛大(まなと)さんと山中俊史さんは今年7月、原爆ホームを訪ねた。そこで聞いた被爆証言を紹介した後、会場に呼びかけて、ノーベル平和賞受賞者たちが起草した誓い「わたしの平和宣言」を共に声に出して読んだ。

パネルディスカッションの発言者に耳を傾ける学生たち( ©長崎純心大学)


 パネルディスカッションで発言した3年生の宮本脩斗(しゅうと)さんは、関西出身。進学で長崎に来て、平和教育や行事を意識するようになったという。今年8月に米国や関東の学生と交流した際(→関連記事)、国内でも地域が異なると、平和教育には格差があると実感した。宮本さんは米国の一部地域では、原爆を肯定的に受け止めているところがあることも知り「唯一の被爆国である日本が、教育現場での経験格差を埋めて、日本全体で核に対する認識・知識を平等に身に着けることが大切なステップではないかと感じました」と話した。
 長崎出身で卒業生の三根礼華(みね・あやか)さんは、被爆体験の継承についての研究を卒業論文にまとめた。現在は公務員として勤務する傍ら、祖母の被爆証言を語り継ぐ「家族証言者」活動がライフワークになったという。
 津田匡達(まさみち)さんは祖父が広島で原爆を経験し、祖母は長崎で被爆している。祖父に当時の体験を聞いたところ、「そんなことは二度と聞くな」と怒鳴られた経験がある。祖父からは亡くなるまで話を聞くことができなかったが、大学入学後に純女学徒隊のことを知り、平和活動に取り組むようになった。
 活動を通じてさまざまな人に出会い、自分とは異なる立場や視点に触れてからは「相手の立場を知ってから、相手と交流するようになりました」。津田さんは「相手の立場に立って考えることが大切なのかなと考えています」。
 パネルディスカッション後、小グループに分かれて平和構築のためにできることを分かち合った。「偏見を持たずに多様性を理解する」「身近な人を大事にする」「世界の現状を知る」などの意見が出された。同大学学長の坂本久美子修道女は、シンポジウムをこう締めくくった。
 「(被爆証言や平和構築への思いを)伝えていく使命を皆さんは持っています。ここだけに納めないで、今日学んだこと、感じたことを、家族や友達に伝えていくことで広がっていくと思います」

「世界平和のために、今(今から)、あなたができること(やってみたいこと)は何ですか?」
という問いに対する学生たちの答えが、1升(ます)ごとに書かれている(©長崎純心大学)
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